白い闇|ぬくもり1-3

 総合病院と言う大がかりなシステムは、ある種一般社会の常識とは乖離したところに存在している。風邪や腹痛程度で通院する場合と異なって、罹患した病が重ければ重いほど、医師や看護師の言葉に服従せざるを得なくなるのだ。それまでの自分の人生に全く無縁であった人物たちが、いきなりプライバシーに踏み込んできて、隠しておきたいコンプレックスまでも覗き見る。服従と言う表現に違和感があるなら、尊厳の侵害と言い換えても良い。崇高な志を持つごく限られた医療者以外は、暗黙の治外法権に守られた囲いの中で、患者を“従うべき者たち”と捉えている場合も少なくはない。治療と言う錦の御旗の元でなら、理不尽で恣意的な言動も許されるのだ。がんと言う恐ろしい病に加え、女性たちはその心無い辱めにもしばしばたえなければならなかった。
「10時25分か。」
腕時計を見た真一がポツリとつぶやいたのだ。二人は、病院内の面談室にいた。
「乳がんの人だといいけど…。」
真紀は小さくうなずくだけだった。ピアとは仲間のこと。ピアサポーターは全員が“がんサバイバー”で、がんの治療体験者たちなのである。5年10年と経過している者もあれば、再発して、今もなお治療を続けている者もある。全国各地に大小さまざまなNPOが立ち上げられていて、これからがんの治療に入ろうとする患者や、術後に待つ困難な状況に、矢折れ力尽きんとする患者の心の支えとなっているのだ。多くが女性で、特別な講習を経て、治療に関する正しい知識も身に着けていた。貸会議室を借りて定期的な患者相談会を行ったり、今回のように病院からの要請を受けて個別な面談を行ったりもしていた。無論、活動の全てがボランティアなのだ。
「そろそろだね。半になる。」
だが、彼女は内心で後悔していた。これまでに読んだブログの記事が、幾重にも重なって頭をよぎっているのだ。これ以上、悲しみの記憶を語られたらたまらない。不安でいっぱいの心が、今にも悲鳴を上げそうなのだ。ドアがノックされた時、真紀の顔は蒼白となっていた。
「失礼しまーず。」「ごめんなさい、お待たせしちゃいました!」
面談室が華やいだ。モデルかと見まごうほどのスタイリッシュな衣装で現れた白石遥香は、キラキラと煌めく美しい瞳で、たちまち夫婦二人の目をクギ付けにしてしまったのだった。

 失明は、死の次につらい出来事。介護に携わる専門家の間ではそう定義されていた。最も社会と関わる“可能性”を奪われてしまう障害だからかも知れない。翔太の父、多賀宏之も中途失明した一人だった。真っ白にホワイトアウトした、色のない世界で生きているのだ。見えなくなったこと自体がたえがたいのではない。見えなくなることで、奪われてしまったそれまでの日常への喪失感がたえがたいのだ。仕事も、趣味も、手にしていた何もかもを手放していた。今の自分を受け入れるまでに、言葉では語り尽せない恐怖と絶望を味わったのだ。
「オヤジ、明日はかるがもだろ?」
「うん。どうして?」
翔太は、夕飯の支度をしていた。二人の暮らす戸建てのローンは、いみじくも宏之の失明で完済されていた。障害者年金と貯蓄の切り崩しに頼る家計が、何とか成り立っているのもそのお陰なのだ。
「今夜のおかず、明日の昼の弁当に詰めとこうか。」
「ありがとう。」「やさしい息子を持って幸せだ。」
「あはっ!」「ほめ上手な父親を持つと忙しくて大変だ。」
ヤングケアラー。翔太は自らの時間を犠牲にして、早世した母の代わりに家事の大半を引き受けてくれている。宏之も、食器洗いや洗濯など、目を使わなくて良い作業なら手探りでこなすことができた。しかし、火器を使う調理となると、やはり息子にまかせた方が無難なのだ。食卓で待つ父の脳裏に、過日の記憶がよみがえってきた。
「こないだ会った子、大丈夫なのか?」
「何が?」「何が大丈夫?」
「その、父親が障害者で驚いたんじゃないのか。」
「ああ。」「別に。知らない後輩だし、関係ないよ。」
彩音が先輩と呼んでいたのである。
「そうか。ならいい。」
気にならないはずがない。宏之はそう思った。だが、父親の心の負担となるようなことを、うかつに口にする息子ではなかった。障害者には、しかたがないと分かっていても、耳にしたくないセリフがあるのだ。彼の場合、その第一に来るのが、翔太に肩身の狭い思いをさせているかもしれないことだった。
「お待たせ。できたよ。」「飲むでしょ?」
「飲む飲む。」「まだロング缶があったろ。今日は暑かったから。」
「今日も、だろ。」
人間は、情報の約8割を視覚から得ていると言う。触ればおよその形が分かる物を除いて、文字や色など、誰かに教えて貰わなければ、全盲の視覚障害者は欲しい情報が得られない。ましてや感性や主観の違いによって見方の変わるものは、例え伝える側の表現力が豊かであっても真の姿が分からなかった。視覚障害者の家族にとって、時にこの“伝える”作業が重荷となる。状況に応じて、素早く、的確に伝えてやらなければ、強いストレスを感じさせてしまうからだ。自ら能動的に情報を得られる手段があるなら、視覚障害者やその家族にとって、これほど有り難い天の助けはなかった。
「やっこは醤油、ポン酢?」「焼き餃子があるからさ。」
「じゃ、醤油だな。」
「ショウガは混ぜとく?」
「頼む。餃子もポン酢とラー油かけといてくれ。」
「オッケー。」「缶は右側に置いたよ。はい、お箸。」
失明は、死の次につらい出来事である。しかし、今ではその定義が過去のものとなりつつあるのだ。視覚を失うことによって、健常者から大きく遠のいてしまうことが二つある。一つは情報の遮断による社会からの孤立だ。そしてもう一つが、自由な行動の制限による空間からの孤立であった。印刷された物を読むことも、見知らぬ土地へ出かけることも、本人単独では不可能だからだ。そこには、何がしかの人の助力が必要となって来る。だが、それが今、大きく様変わりを始めているのであった。
「いつだっけ、かるがものバス旅行。」
「秋のバス旅行か?」「えーと、確か10月の…。」
失明によって自暴自棄となり、生きる気力さえ奪われていた彼に、手を差し伸べてくれたのが“かるがも”だった。その出会いが、宏之を“白い闇”の中から引きずり出してくれたのである。

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