バリアバリュー|ぬくもり1-9

 人間の命の重さは等しく同じであるはずなのに、罹患した病気の種類によって、その公平さが大きく損なわれてしまうことがある。例えばがんのように、患者の数が増加の一途をたどるメジャーな病気の場合は、医療界に莫大な利益をもたらす市場のメカニスムが働いているのだ。医薬品や医療機器メーカーが、目の色を変えて研究開発に取り組んでいる。一歩でもライバルに先んじようと、湯水のごとくに資金を注ぎ込んでいるのだ。がんの治療が、日進月歩と言われる所以でもあった。それに引き換え、患者の数が数万人、あるいは数千人にも満たないマイナーな“難病”の場合は、金儲けが“難しい病”として、予め注力の対象から除外され、多くの患者が大学の研究者の地道な努力の積み重ねか、奇跡的な偶然の発見に一縷の望みを繋ぐしかない。呆れるくらいに、新薬の生まれないのが難病なのだ。その意味においては、わずかな支援策と、税金泥棒とまで揶揄される障害者年金で、マイノリティ(少数派)の口を塞いできた国家の意図にも、重大な瑕疵(かし)があったと言わざるを得ない。政治が主導権さえ発揮していれば、これまでどれほど多くの難病が克服されてきたことか。議員の票に結び付かない一握りの者たちは、差別と偏見にたえて小さく呼吸するしかなかった。
「お待たせ!」「ごめんねえ。チェックインがなかなか…。」
「あ、いえ。お疲れ様でした。」「すみません、急に無理を言って。」
遥香が会議室に待たせていたのは、日勤者の石川和代であった。
「703の岡崎様も、何事もなくお部屋に戻られたし。石川さんのお陰ね。助かったわ。」
「そうですか。手話が役に立って良かったです。」
和代の母は、聴覚障害者だった。予約にその事が記されていたため、勤務シフトを交替して、彼女がインフォメーションを担当してくれたのである。この先は、筆談でも対応ができた。
「明日も早めに出勤するつもりです。」「気になるので。」
「ありがとう。助かる。」
生真面目で根気の良い、メンドウな仕事でも進んで手を上げる前向きな性格だった。ホテルマンになりたくて、単身で田舎を後にしていた。和代の夢は、海外のホテルのフロントに立つことだ。質素倹約を旨として、自費で語学教室にも通っていた。遥香に憧れ、マネジメントの勉強も始めるなど、将来を嘱望される優秀な努力家でもあったのだ。
「で、話って?」
このところ、本来の精気が感じられない。遥香もそう心配していた。
「まさか、辞めるなんて言わないでよ。」「うふっ、心臓に悪いから。」
「いいえ。辞めるなんて…。」
「何?」「言い出しにくいこと?」
その刹那、うなだれた和代の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「石川さん…。」
やっとのことで、遥香が涙のワケを聞き出せたのは30分も後だった。
「どうして!?」「どうして、こんなになるまで隠してたの!?」
ブラの上からでも、はっきり見て取ることができた。腫瘍が皮膚を押し上げているのだ。既にステージ(病期)ⅢのBではないか。もはや一刻の猶予も許されない状態だった。
「彼に…。」「彼に、言えなくて…。」
「そんな!」
遠距離恋愛だったのだ。田舎に、将来を約束し合った大切な人がいた。だが、彼の両親からは猛反対されていたのだ。和代の母が聴覚障害者であるからだった。彼女の母は、聾者だった。成人するまでは聴覚があって、その後に聴こえなくなってしまったのである。娘もきっと同じであるに違いない。狭い田舎町で、彼女に偏見を持たぬ者はなかった。
「そう言うこと…。」
遥香は言葉を失った。和代の深い悲しみを、すぐには受け止めきれなかったのだ。乳房を失うかもしれないと分かれば、彼の心までもが離れてしまう。どんなに怖かったことか。どんなに心細かったことか。これほどそばにいながら、気付いて上げられなかった自分も情けなかった。社会の差別と偏見が、勤勉な一人の若者の明日を奪おうとしていた。

 花の都のど真ん中。名だたる名店が軒を連ねる一等地に、たった4日の強行軍を成し遂げんとする決意の母子が到着した。まだ寒風吹きすさぶ2月の、ある日の朝のことである。
「デカいぞ、息子。」
彼女はベールに包まれた巨大な建物を見上げていた。
「ああ、でっかいね。」「ビビった?」
「ふん。」「わしを誰だと思うちょる。」「菊川由莉様をなめるな。」
瞳は、もうアーティストの色に変わっていた。
「さすがオフクロ。どこでも男前だ。」
「まいるぞ。時間との勝負じゃ。」
4月の開業を目前に控えた有名百貨店の建設現場だった。由利に仕事の依頼が舞い込んだのだ。物販フロアの要となる場所に、彼女が描く二枚の作品が飾られる。ぜひにとこわれて請け負った、彼女にとってもさらなる飛躍の足掛かりとなるはずの仕事であった。だが、時間がない。万障繰り合わせても、4日間の日程が限界だった。母はアシスタントに選んだ孝行息子を連れ、不退転の決意で未知なる現場へと乗り込んで来たのだ。
「うわっ、ここ!?」「マジっすか!?」
息子がそう叫ぶのも無理はない。まるで、防空壕とジャングルをごちゃ混ぜにしたような有様なのだ。とても“アートを描く”と言えるような環境ではなかった。むき出しのコンクリートからは無数の配線が垂れ下がり、裸電球に照らされた建材の間を縫うようにして進まなければならない。ドリルと金づちのけたたましい音が、ホコリまみれにされる二人の耳を塞いでいた。
「こちらでお願いします。」
壁面用に依頼されたのが縦2m×横2m、円柱用が縦2m×横4mの大作だった。母子は、わずかな暇も惜しんで、作品の制作に取り掛かったのである。
『お前が描いたんじゃねえだろ。嘘つくな。』
クラスの男の子が、すぐにそう決めつけた。
『ぜったい誰かに描いてもらったんだ。』『お前に描けるわけねえじゃん。』
『由莉ちゃん、早くほんとのこと言った方がいいよ。』
『こいつ嘘つきだ!』『嘘っつき!嘘っつき!嘘っつき!嘘っつき!・・・』
脳障害。彼女の場合は、遺伝子に起因する先天的なものではない。出生時の不慮の事故が原因で、由莉の全身にはマヒが残ってしまったのだ。小学生の時、皆でアニメのキャラクターを描いてくることになった。彼女も、“震える指先”で精一杯に描いたのだ。自分なりに満足のできる絵に仕上がった。やや得意げに、皆に褒めてもらえると期待して疲労したのである。誰も信じてはくれなかった。由利の絵がクラスに飾られることはなかったのだ。
「オフクロ、また今日もギャラリーが増えてる。」
「ほっとけ。わしゃ忙しい。」
本物だけが人の心を動かせる。あの日、画家になろうと誓った幼い由莉の絵が、追い込みも追い込み、他人の作業になど構っていられるはずのない現場の作業員たちを、一人、また一人と集め始めたのだ。頼んだわけでは決してない。気が付けば、皆が手を貸してくれていた。
「おう…、よは満足じゃ。」「皆にも例を言わねばならんのう。」
大作は、思わぬボランティアの出現で間に合わせることができた。
「あんたの絵、この微妙に揺れてる線が、たまんなく心に残るんだよなあ。」
「そうそう。俺も今朝の夢に出てきた。」「何つうか、すんげえ個性的でさ。」
バリアバリュー。障害を価値に変えると言う考え方だ。彼女は、見事にハンデを克服した。否、己がハンデを、余人にはマネのできない価値にまで高めてしまったのである。障害者に限らず、誰もが心を傷付けられていく。だが、心を宿す魂には二種類があるのだ。傷付くたびにすさんでみずぼらしくなっていく魂と、傷付くたびに強く逞しくなっていく魂であった。
「観にくるよ、あんたの絵。オープンしたら、うちの家族連れてさ。」
「ああ。忘れらんねえや、描いてる時の、炎みてえにほとばしるあんたの気迫。」
「あっ、そうだ。まだ名前も聞いちゃあいなかった。画伯の名前、ぜひ聞かせてくれよ。」
息子は、ニヤリと笑って母を見た。
「ん、名か?」「わしの名は…。」
どこにいても、期待通りにぶっ飛ぶ由莉だった。
「菊川由莉ちゃんどぇーす!」


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