雨音|ぬくもり1-12

 真夏の天気予報ほど、当てにならないものはない。天国へたどり着くはずの翌日は、朝から激しい土砂降りの雷雨となっていた。図書館へ向かうのなら、着替えを一式用意しなければならない。他の誰かとの約束であれば、目覚めた途端、窓から空を見上げることもなかった。
「ありがと。ほんと助かった。」
「帰りも電話しなさい。ママ、家にいるから。」
幸運の女神が彩音に微笑んでくれたのだ。偶然にも、今日が薬局の定休日だったのである。
「うん。じゃね!」
ワイパーがきかないくらいの、猛烈に叩き付ける雨の中へと愛娘が飛び出した。静江は、入口をがけ上がる後ろ姿に、初めて恋をした頃の自らの背中を重ねていた。どんな男の子なのだろう。こんな日にでも逢わずにはいられないほど、彩音を夢中にさせている相手なのだ。ものぐさで、いつもゴロゴロ、だらだら。暇さえあれば、テレビを見てうたた寝をしている。そんな姿しか知らなかった娘が、一人前の大人の顔で恋をしていた。嬉しくもあり、心配でもあり…。でも、心の中でつぶやく母の言葉はひとつであった。頑張れ、彩音。精一杯の恋をして、自分の今を走り抜け。
「こんにちは。」
挨拶を交わしたのは、図書館の司書だった。がらんとした館内に、やはり人の姿はなかった。30分も早く着いたのだ。彩音は、あの本を手に閲覧コーナーへと腰掛けた。何もかもが、前回までとは違って見えている。整然と並んだ本棚さえ、まるで自分の応援団のように感じられていた。この場所へ来ていなければ、彼に声をかけられることもなかった。レストランでも、遠巻きに眺めるだけの存在であったはずなのだ。縮まる距離に戸惑いながらも、二人で逢える喜びに舞い上がっていた。だが同時に、それを上回るほどの不安にもからわれているのだ。なぜ、自分に声をかけてきたのだろう。どうして、この図書館に誘ってくれたのだろう。もしかしたら大きな勘違いをしていて、全く別の用件で待ち合わせをしているのかもしれない。だとしたら、ショックが大きすぎる。相手は、学園一の憧れの君なのだ。自分がカノジョ候補になったと、ゆめゆめ思いあがるべきではなかった。
「よく降りますね。」
一人きりでぼうっと窓の外を眺めている少女に、司書の女性が声をかけたのだ。
「はい。すごく降ってます。」
約束の時間が近づいていた。雨は、さらに激しさを増している。本当に現れるのだろうか。彩音はとても心配そうに、大きなガラス窓を叩く雨音を聴いていた。もう5分前だ。きっと家から一歩も出られないに違いない。連絡先は知らなかった。デジタルな時間だけが通り過ぎていく。彩音はそれを黙々と見送るしかなかった。3時を回った。翔太の姿はそこにない。舞い上がっていた気持ちが、諦めと変わり、次第にみじめな想いがこみ上げてきた。期待し過ぎていたのだ。ひょっとしたら、約束そのものを忘れられてしまったのかもしれない。自分の存在など、彼にとってはその程度なのだ。世の中には奇跡が起こるのだと信じかけていた少女は、それがうぬぼれ屋の幻想であったと思い知らされていた。たったの45分で、彩音は天国から地の果てまで吹き飛ばされていた。もう、雨音も聴こえない。
「ごめん、待った?」「来てくれてないかと思ってた。」
真夏の陽射しが、嘘のように厚い雲を突き破り、窓全体をキラキラと輝かせていた。
「今度は絶対に遅れないから。」
コ・ン・ド…翔太は確かにそう言った。
「でも、連絡先を交換しとこうか。」「あっ、聞いてもいいのかな。」
地の果てにいた少女に、奇跡が起ころうとしていた。

 ピアサポーター“リボンハート”は、駅前地区の貸ビルの1フロアを拠点としていた。代表を務める高梨佐代子(タカナシ サヨコ)が、このビルのオーナーでもあるからだ。がん患者相談会も、毎週1回を基本に、いくつかの個室に分かれて面談を行っていた。乳がんだけではない。さまざまながん種の患者やその家族、あるいは関係の深い知人などが、駆け込み寺のごとくにここを訪れていた。皆一様に、希望のカケラを求めてやって来るのだ。
「困った子ね。」「また伊藤先生のところに押しかけたらしいわ。」
「そうですか…。」
斎藤美佳子の話は、相談会後のミーティングでも取り上げられるようになっていた。必ずしも、遥香一人が面談に応じているわけではないのだ。彼女の放つ負のパワーは、他のピアサポーターたちも、徐々に徐々に消耗させていた。遥香は、田所真紀の手術が無事に終わったことを報告し、石川和代も治療の方針が示されたことを報告した。
「そう。ご主人が…。」
ミーティングは終わっていた。遥香が佐代子に個人的な相談を持ちかけたのだ。
「いえ。私の話はいいんです。」
心の迷いを素直に打ち明けていた。果たして、和代のサポートをこのまま続けて良いものなのか。上司と部下の関係であることも、悩みをより複雑に感じさせていた。
「なるほど。」「あなたらしいわ。」
佐代子が、当時の彼女を支えてくれたのだ。今にも崩れ落ちそうだった遥香の心を、時にやさしく、時に力強く、最新の知識も交えて見事にサポートしてくれた。遥香が、ピアサポーターの持つ重い使命に共感を覚えたのも、高梨佐代子との出会いがあったればこそだった。
「他の方にお任せすべきではないかと…。」
「あら。」「雨が上がったのね。陽が差してきたわ。」
そう言えば、激しい雨音が聴こえなくなっていた。
「私、ピアサポーターは気負いこんじゃいけないって、そう思うの。」
佐代子が、今のリボンハートを育ててきた。実業家でもあり、大腸がんのサバイバーでもあった。一口にピアサポーターと言っても、個々の参加の意識は十人十色なのだ。単にケアギバーズハイだけを求めて参加している者もあれば、同じがん種の患者と想いを共有することで、自身の喪失感を埋めたり、心の傷を癒そうと考えている者もある。過去には、高額なサプリメントを、こっそり売りつけていた者さえあるのだ。理想と現実を近付けることが、いかに難しい作業なのか。どうメンバ-たちを導けば、より患者の心に寄り添えるのか。佐代子は、悩み続けて今日まできた。窓際に立つ彼女の背を、遥香は静かに見つめていた。
「こうあるべき、は私たちのオゴリのように思います。」
決して自身の考えを押し付けようとはしない。一人一人に自分の答えを探させるのだ。
「大切なのは、暗い闇の中にいる患者さんの心に、小さな灯りをともして上げること。」
自ら見つけた答えでなければ、人は本当に受け入れようとはしないからだ。
「石川和代さんが、今一番、この人に支えて貰いたいと望むのは誰かしら。」
その刹那、遥香の頬を一粒の大きな涙が伝っていた。答えは分かっていたのだ。自分のつらい現実から逃げたい気持ちを、佐代子には見抜かれていた。否、彼女からそう指摘されたかったのかもしれない。自らの甘さに、凛とした佐代子の言葉が突き刺さっていた。
「太陽って眩しい。」「私たちが生きているから、そう感じられるのよねえ。」


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