見果てぬ夢|ぬくもり1-21

 どこをどう走ったのか、ほとんど途中を覚えていない。気付いた時には、やすらぎ会館の前にいた。こんな時間に、かるがも教室が開いているはずもなかった。少女は駐車場の片隅で膝をかかえ、うずくまるようにして泣き出した。あのあとがどうなったのか。土手の反対側へ駆け下りた彩音には分からなかった。大きな声で彼女の名を呼ぶ仲間たちにも、一度も振り返らずに逃げ出したのである。天と地がさかさまになったような、明日と昨日がなくなってしまったような、小さな胸はそんな想いで張りさけそうになっていた。
「これこれ、こんなとこでションベンしてはならぬ。」「皆が迷惑するではないか。」
近付く人影は、耳なれた画伯の声だった。
「特に夏場は臭いが…。」「うむ?彩音ではないか?何しとるんじゃ、こんな時間に?」
「えっ、神崎彩音?」「何でいるの?」「一人?翔くんは?」
「おらぬ。一人のようじゃ。」
後ろに葵もいた。二人は、誕生日会の準備に追われていたのだ。
「なっ、何か隠してない?」「機関銃とか、バズーカとか?」
「由莉さん!」
少女は、すがり付くようにして彼女の胸へ飛び込んでいった。
「何をするのじゃ!?」「わしにそんな趣味はない!発情する相手が違っておろう!」
「由莉ちゃん大丈夫!?」「私だけ逃げてもいい!?」「やーん、独りで逃げれなーい!」
だが、少女の頬の涙にすぐ気が付いた。
「もしや泣いておるのか?」「ここでは何じゃ、教室へまいるか。」「話はそれからじゃ。」
「私、防弾チョッキとか着てないけど?」「かるがもの教室に貸出し用ってあった?」
あと10分来るのが遅ければ、自分たちは帰宅していた。何やら不思議な縁があるらしい。葵は内心でそう思った。知らず知らずのうちに、彩音を身内のように感じていたのだ。ハンカチを手にシクシクと泣く少女から、しだいに由莉が事情を聞き出していった。
「とんでもないところを目撃したのう。」「何者じゃ、その娘は?」
彩音は力なく首を横に振った。
「あっ、でも、心臓の音聴いてたのかも。出張看護師とか、今、はやってたりしない?」
「暗い河原でか?」「そのほうがよっぽど危なかろう。」
あれやこれやと、この場で論じていても始まらない。即断即決の由莉が、直接本人に確かめるべきだと助言した。男前ならではの、切れ味の良い判断だった。
「ムリ…です。」
「これこれ、情けないことを申すでない。」「このまま引き下がっても良いのか。」
今度は素早く首を横に振った。
「でも、絶対…、ムリです。」
母性をくすぐる、蚊の鳴くような声だった。
「難儀な娘じゃのう。」「しゃあない、ならばわしらが…。」
言いかけた画伯を、隣の葵が手で制したのだ。
「何が、無理なの?」
いつもの口調とはまるで違っていた。
「確かめなくていいってこと?」
うなだれていた彩音が、目頭をハンカチで押さえながら顔を上げた。
「そんなに信じられないわけ?翔くんのこと。」
少女の気持ちを痛いほど分かっていながら、葵はあえて問いかけたのだ。
「私の知ってる翔くんは、そんなに軽い奴じゃない。」
由莉も、全く同じ意見であると、ゆっくりうなずいて見せた。
「あんたの目は節穴?」「それとも、恋は盲目で何も見えないのかしら?」
「おおっ、葵がそれを申すか!?」
「彼が神崎彩音をどう思ってるか。」「かるがもの全員がウンザリするくらい知ってるわ!」
「何と!どさくさ紛れの敗北宣言ではないか!」
「多賀翔太は、あなたを選んだの。」「この元カリスマスーパーモデルの私じゃなく、ね。」
「だはははははっ!最初から候補にも挙がっておるまい!」
「もっと自信を持ちなさい。」「女は自信。それを磨いてくれるのが、翔くんみたいないい男。」「若いのに惚れ惚れするくらい強さとやさしさを持ってる。橘葵の保証書付きよ!」
「葵さん…。」
「今の彼には、神崎彩音しか見えてない。」「ふん。今回は気持ち良く譲って上げるわ。」
「何という上から目線!」「老いらくの恋に血迷うておっただけではないか!」
稲妻のごとき鉄拳が飛んだ。息を切らせた翔太が、教室のドアを開いたのも同時であった。
「やっぱりここだったのか!」
彩音の名を呼ぶ仲間たちの声が、彼の耳にも届いていたのだ。
「ああっ、葵ったら、いきなりオシッコもれそう!」「由莉ちゃん、トイレトイレーッ!」
「まっ、待て。」「まだ地球が回っておる。」
「もう!出ちゃう出ちゃうーっ!」「急げ急げーっ!」
パタンとドアが閉じられた。彩音は目を合わせることができなかった。
「誤解しないでくれ。」「あいつとは幼なじみなんだ。」「でも、悪かった。謝る。」
「私なんかに謝ることじゃ…。」
「もう二度と、神崎を傷付けたりしない。」
少女は、ようやく翔太を見ることができた。
「神崎のこと、自分がどう思ってるのか。はっきり分かった。」
彼は、やさしく彩音を引き寄せた。
「僕と付き合ってくれないか。」「返事は…。」「今、すぐに聞かせてほしい。」
愛おしさで一杯となった。彼女は、その腕の中で目を閉じたのである。
「本当に、私なんかでいいんですか。」
「君が僕なんかでいいなら。」
飛び切りの甘い甘い痺れが、若い二人の全身を貫いていった。あろうことか。神聖なるかるがもの教室が、爪先立ちする彩音の、忘れ得ぬ初めての思い出の場となったのだ。心配そうに通路で聞き耳を立てていた二人は、大きな咳ばらいを10回ずつもして、それから小さなドアノブに手をかけたのだった。葵は、はにかんでいるはずの彩音の顔を見られないのが、とても残念なことに思えていた。

 玄関をくぐれば、料理好きな旦那が帰宅していることはすぐに分かった。今夜は、揚げ物をしてくれているらしい。夫婦の仲は可もなく不可もなく。毎日の生活は、長年連れ添ってきた過去からの延長線の上に乗っていた。葵は、既に食べ終わった彼の隣で、大好きな缶ビールに舌鼓を打って、必要最低限の会話で夕食を済ませていったのである。
「ご馳走さま。」
後片付けは彼女の役目だった。
「明日も定時よね。」「分かった。お休みなさ~い。」
見えない、と言うことがどういうことなのか。これほど身近にいる旦那ですら、彼女のいだく想いの半分も理解してくれてはいない。今さら何かを訴えたところで、互いの心のストレスとなるだけなのだ。昨日と変わらぬ今日を、淡々と過ごしていくほうが無難であった。
「さあてと。」「最終回でも聴くか。」
だが、見えないからこそ見えているものもあるのだ。外見に惑わされない人の心の有り様だった。頼れるものは、相手の口にする言葉でしかない。そこから、結論に至るための真実を導きださなければならないのだ。嘘や偽りを見抜くというよりは、誠実であるか否か、信頼にたる人物であるか否か、敏感に素早く感じ取っているのであった。
「ええーっ、どうなっちゃうの?」
やってみたいことが山ほどあるのだ。行ってみたい場所も、触れてみたい物も、数え切れないほどたくさんあった。しかし、それ以上に、本当は見てみたい、直にその目で確かめてみたいものが、満天の星の数ほど身の回りに存在していた。
「やだ、別れちゃうの?」「嘘、それはないでしょ!ダメよ!」
どうか、翔太と彩音が末永く幸せでいてほしい。そう願う一方で、若い二人の今と、そして未来が羨ましくもあった。失ってみなければ分からないものがある。失ってみて初めて、心に芽生える感情もあるのだ。葵は、昨夜とよく似た今夜を終えようとしていた。
「ふあ~あ!」「メールチェックして寝るか。ふあ~あ~あ!」
心の奥底に咲いた一輪の真っ赤なバラの花。それは、誰もがその美に心奪われた、本当にカリスマスーパーモデルと呼ばれていた葵自身になぞらえているのかもしれない。あの頃に戻りたいのではなかった。あの頃の自分を、華麗に飛び超えてみたかったのだ。大いびきをかく旦那の隣で、今夜も、見果てぬ夢に葵の心が落ちていくのであった。

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