珈琲|ぬくもり1-22

 市の福祉課を訪ねた雄一は、同行してくれた智美の前でがっくりと肩を落とした。天井知らずに膨れ上がる社会保障費と、あの手この手でそれを貪り尽そうとする悪徳業者の存在で、ほとんど当事者たちの預かり知らぬところで、要介護の認定は容易ならざるものとなっていた。ハ-ドルの上った厳しい基準が、老老介護の悲惨な現実を冷淡に切り捨てているのだ。どの社会保障制度の見直しも、庶民の耳目を集めるスキャンダルやビッグニュースの陰で、ほとんどメディアに取り上げられることもなく、こっそりと通過してきた改悪法案ばかりであった。個人個人の身に火の粉が降りかかるまで、悪意に気付かせない仕組みができ上がっている。政治や行政に疎いことが、やがては自分たちの首を絞めることになるのだ。
「恥。」「そう考えてしまう世代の人間でね。」
二人はこぢんまりとした喫茶店で向かい合っていた。
「恥…ですか。」「何がです?」
意外な言葉に驚いた。孝子のことをそんな風に思っているのだろうか。要介護度の認定に、思ったほどの期待が持てない。そのことに落胆していると受け取っていたのだ。
「自分の女房の面倒もみてやれない。」「あいつを邪魔扱いしてるみたいだ。」
雄一らしい言葉だと思った。福祉サービスに頼る自分を恥じているのだ。
「ご自分を責めるべきじゃないと思います。」「奥さんにとっても、最善のはずですから。」
認知症外来から、精神科に切り替えていた。自覚のない孝子を、ごまかしながら受診させるだけでも気が引けているのだ。彼自身の心の負担は重くなる一方だった。
「理屈じゃ分かっちゃいるんだが…。」
淹れたての、香り立つ珈琲が運ばれてきた。
「情けないと言うか。自分可愛さに、女房を人様に押し付けるみたいでさ。」
「でも、お医者様からもそう…。」
「まあ、それはそれだから。」
自宅に閉じ込めておくことが、強いストレスを与えていたらしい。一昨日の晩に、洗面台の前で自らの髪を切っていたのだ。大きなハサミを持ち出して、ザクザクと無表情で切っていた。脱衣場は、たちまち黒髪で埋め尽くされてしまったのである。
「放り出されるあいつがふびんだ。」
だが、彼自身も既に限界であった。どれほど夫婦仲が良くても、四六時中そばにいれば互いに息が詰まってくる。しかも、少しでも目を離せば、何をしでかすか分からないのだ。常に行動を把握し、異常を察知しなければならない。就寝時すらも、それは全く同じであるのだ。先に寝ることができなくなった。あとから起きることもできなかった。毎日の眠りが浅くなり、わずかな物音でも目が覚めるようになっていたのだ。気の休まる暇がなかった。彼を気遣う智美からすれば、頭の下がる思いばかりなのだ。これ以上、自分を追い詰めてほしくはなかった。
「ごめんごめん。」「足代わりに使った上、愚痴まで聞かせちゃ面目ない。」
沈んだ心で見せる笑顔は、彼女に老いの哀愁を感じさせた。
「いえ。私に遠慮しないで下さい。」「何の役にも立たなくて、心苦しいです。」
「何の。智ちゃんがいるから、どんなに救われてるか。ほんとに感謝してるんだ。」
砂糖が二杯、ミルクは入れない。それが、雄一の珈琲だった。彼の好みなら、たいていは心得ている。付き合いの長さだけが、そうさせたわけではなかった。雄一の嗜好が、彼女の嗜好に近いのだ。共に過ごす時間が心地良いのもそのせいだった。砂糖が二杯、ミルクは入れない。それが、智美の珈琲の飲みかたでもあった。

 ブッキングの引継ぎは若手の日勤者に任せて、遥香は久々にカウンターでの接客に気を吐いていた。いよいよ明日が、和代の手術日なのだ。彼女の抜けた分の勤務シフトを埋めていた。
「いらっしゃいませ。お名前を頂戴できますか。」
容姿が端麗なばかりでなく、柔らかな所作や言葉の抑揚までもが美しい。チェックインに訪れたビジネスマンたちは、しなやかな指の動きにも魅せられていった。
「ご予約は、本日よりご一泊で承っております。」
ホテルとはまさしく“魅せる仕事”であった。お客様の生命と財産をお守りする、そんな崇高な使命を果たすと同時に、ごくさり気なく来訪者を魅せなければならない。
「こちらにご記入をお願い致します。」
細部まで緻密に計算された演出と、洗練されたパフォーマンスで、一期一会となるかもしれない客の心を掴むのだ。業界では総合力とも言われていた。巨大な装置産業でありながら、繊細な人的サービがその評価の分かれ目となる。ホテルがサービス業の頂点に君臨するのは、1にも2にも、こうした現場スタッフたちのたゆまぬ努力があればこそだった。看板を背負う者たちは、その名に誇りを持っている。愛社精神とかではなくて、ホテルで働く者の多くが、“ホテルマン”と言う抽象的な概念をこよなく愛しているのだ。特異なモチベーションであった。
「支配人、もう大丈夫です。少し休憩なさって下さい。」「今夜は泊まりですよね。」
「ありがとう。」「そうなの。じゃあ、そうさせてもらおうかな。」
フロントバックのオフィスで、大好きな珈琲を淹れた。
「あ…。」
着信していたメールは、山岡からであった。
「えっ、今夜?」「今からってこと?」
時計は21時を回っていた。今夜はナイトマネージャーなのだ。このあとはホテルを抜けられない。夜間の総支配人とでも呼ぶべきか。緊急時の対応に備えて、持ちまわりで、管理職の誰かが毎夜ホテルに泊まり込んでいる。月に二度ほど、遥香にもその順番が回ってきていた。今夜がそれに当たるのだ。勝が疑った“夜勤”とはこのことだった。
「知ってるはずなのに…。」「行きたいけど、無理ですよ。」
あれ以来、夫との生活はすれ違うようになっていた。
「あ、けっこう強引。」「今頃から代わってもらえる役職者なんて…。」
いないわけでもなかった。ナイトマネージャーには、それなりの手当てが付くからだ。残業して遅くなり、帰宅が面倒な幹部も必ずいる。だが、遥香は他のセクションをあたろうとはしなかった。新たな盗撮を恐れているのだ。あの時、確かに何組かのゲストが同じ階にいた。その中に調査員が紛れ込んでいたとしても不思議ではなかった。しかし、近年のホテルは、ルームキーを持っていなければ客室階までは上がって来れない。どうやって紛れ込んだのだろうか。釈然としないものがあった。それが、彼女にブレーキをかけさせたのである。
「うふっ、また誘って下さいね~、と。」「はあ、残念だなあ。」
山岡には、事実を伝えていなかった。あくまで夫婦の問題であると捉えていたからだ。否、彼からも敬遠されたらたえられない。山岡との関係だけは損ないたくなかった。
“may I help you?”
颯爽とフロントに立つ白石遥香は、誰の目にもヤマトナデシコに見えていた。
“Have a nice stay.”

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