神の仕打ち|ぬくもり1-23

 幼い頃の記憶は、刻まれていく優先順位が、大人のそれとは大きく異なっている。物のサイズや距離感が、まるで違っているのは当然だった。優先順位とは、シーンを留めるきっかけのことだ。記憶は、感情が動いた時に刻まれる。幼子であれば複雑な意識はなくて、驚きや恐怖、痛みなどの、強い衝撃が記憶を刻む上位にくるはずだった。のちに思い出す鮮明な記憶には、その時動いた感情もしっかりと張り付けられているはずだった。
「覚えてる。」「麻衣の背中に青虫入れた事件だろ。」
「最低よね。」「ほんと、翔太って悪ガキだった。」
「今じゃ考えられねえな。学校一の優等生だぜ、あいつ。」
思い出の公園で、木陰のブランコに隣り合わせで腰掛けていた。
「大輔だって人のこと言えないよ。」「どれだけ泣かされたか。」
「あはっ!あのかくれんぼ事件は大爆笑だった。」「お前、鼻水垂らしてたもんな。」
「やめてよ、垂らしてない!」「もう、また泣かせる気!?」
この場所で、暗くなるまで毎日のように遊んでいた。
「楽しかったなあ、あの頃は。」
「うん、楽しかった。ぜんぶ昨日のことみたい。」
あの頃と違っているのは、そこに翔太の姿がないことだった。大輔が彼女を呼び出したのだ。交際を始めた事実を伝えておくべきだと考えたのである。だが、なかなか本題を切り出せない。用意していた言葉を、どこかへ見失っていた。
「で、大事な話って?」「翔太のことなんでしょ?」
「えっ、あ、う、うん。まあ…な。」
このタイミングならそれしかない。麻衣は、相応の心構えをしてきていた。河川敷から慌てて走り出す彼の後姿を、意味不明なままで、呆気にとられて見送ったのだ。
「話して。」
「あ、ああ。」「まあ…。」
「何?」「何かあった?」
「実はその…。翔太の奴がさ、何て言うか、その…。」
「じれったい!寝ちゃいそう!」「いいから早く言って!」
麻衣の気持ちを推し測って、それでも彼は言葉のひとつひとつを選んでいった。どんな言い方をしてみたところで、神崎のことを知れば、彼女が傷付かないはずはない。だからこそ、他の誰かに聞かされるよりも、自分のほうがマシではないかと考えたのだ。彼を見ていた顔が正面に向けられ、しだいにうつむき加減となっていく。大輔の胸も痛んでいた。ずっと翔太一人を想い続けてきた、大切な幼なじみの失意がどれほどのもなのか。わが身に置き換えずにはいられなかったのだ。
「そう…。」「そうなの。」
瞳をうるませて、唇を噛んでいた。
「やっぱり、か。」「そうだったんだね。」
彼女はお日様を仰いだ。涙がこぼれ落ちないようにだ。
「ごめん。聞きたくなかったか。」「俺、余計なことしたかも…、ごめんな。」
大輔の目頭も熱くなっていた。麻衣の哀しみが押し寄せてきたのである。
「いいの。」「教えてくれてありがとう。」
細い足が乾いた地面を蹴った。
「私ね!」
大きく一度、麻衣がブランコをこいだのだ。
「本当はすっごく諦めが悪いの!」
涙が、風に舞った。
「ううん!」「ぜんぜん諦めてなんかなかったの!」
「麻衣…。」
「ずっと後悔してた。親の言う通りにしてきたこと。」
揺れはだんだん小さくなっていた。
「やっぱり翔太が好き。」「他の誰かじゃダメなんだ。」
そして、爪先でピタリと止めたのだった。
「もう、後悔したくない。」「翔太のこと、諦められるわけないもの。」
「お前?」
「諦めたフリもやめにする。」「これからは、親の言いなりになんかならない。」
立ち上がった彼女が、とっておきの、晴れ晴れとした笑顔を見せたのだ。
「うふふっ、人生ってメチャメチャ長いのよ。」「何もかも、私たちはこれからだわ!」
いつの間に、こんなに強くなっていたのだろう。毎日、二人に泣かされていた幼い少女が、愛の力で、ふた周りもみ回りもたくましい大人の女性に変身していた。
「そっか。そうだよな。」「まだまだ、勝負はこれからってことか。」
「負けないわよ、絶対!」
人を愛する心が何より最強なのだと、大輔は、美しい幼なじみを見上げて知った。

 今夜ほど、誰もいないマンションが物悲しく思えたことはない。遥香は、集中治療室を出た和代を真っ先に見舞ったのだ。母との会話は、隆がサポートしてくれた。リンパへの転移の事実を知らされたのもその時だったのである。
『体力の回復を待って、抗がん剤治療を始めるそうです。』
言葉が浮かばなかった。
『予断を許さない状況だと…。』『大変厳しいと言われました。』
神への祈りは通じなかった。最悪の事態に陥っていたのだ。顔付の悪いがんだとも言われたらしい。つまりは凶暴な類いのがんなのだ。より効果の高い抗がん剤が使われるに違いない。それでも、生き延びれる確率は極めて低いと考えざるを得なかった。
『死んだり…しませんよね、あいつ。』
彼は、抑えていた感情を、遥香の前では隠せなかった。
『お願い…です。』『嘘でも、いいですから。』
声を詰まらせる姿が、彼女の胸を切り刻んだ。
『和代は大丈夫だって、心配…いらないって、俺にそう…言ってやって下さい。』
何なのだ、一体。どうして不幸ばかりが遅いかかるのだ。何の苦労も災いもなく、毎日をおもしろおかしく生きている人間など、この世の中には履いて捨てるほどにいる。あんなにひたむきに、あんなに歯を食い縛って、つらい宿命を背負い続けて生きてきているのだ。それでもまだ足らないと言うのか。それでももっと苦しめと言うのか。あまりにむごい、あまりに片手落ちな神の仕打ちに思えていた。
『石川さんにもしものことなんて、あるはずありません。』『彼女を信じましょう。』
遥香の精一杯の言葉であった。彼女自身も、絶望の淵に叩き込まれる思いだったのだ。和代とのこれまでの日々が、走馬灯のように蘇ってきた。学生時代に面接をして、採用を決めたのも遥香だったのである。和代は、母の障害のことを包み隠さず話してくれた。いつか、聴こえなくなってしまうかもしれない。例えそうでも、夢を諦めきれないのだと、初々しい笑顔で正直に話してくれたのだった。難色を示す人事担当者を、山岡の力を借りて押し切った。
「嘘でしょ。どうしてこうなっちゃうわけ。」
リビングのテーブルに、離婚届が置かれていたのだ。すぐに携帯を鳴らした。
「ふざけないで出てよ。わけ分かんない。」
何度試しても留守電だった。怒りが徐々に萎えていく。離婚を話し合う気もないらしい。
「…本気なの。」「本気で別れるつもりなの。」
勝の署名と捺印とが、一方的に済まされている。貼り付けられた付箋には、必ず明日中に届け出しろとだけ書かれていた。遥香は、全身の力が抜けてソファへとへたり込んだ。もうどうして良いのか分からない。絶望の淵に沈んだ心が、今にも窒息してしまいそうだった。

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