アトリエ|ぬくもり1-24

 平日に街場のレストランでウエイトレスとして働き、土日だけショッピングセンターのレジ係をしている。オフィス街のレストランは、ランチタイムが売上の中心だった。1円でも多く稼ぎたい智美は、少人数で回す夜間の勤務にも交替で入れてもらっている。夕食のピークが過ぎれば、店は一気にヒマだった。最後はラストまでの遅番が、2人で閉店作業を行うのだ。調理場の消灯後が、彼女にとっては気の重い時間となっていた。
「お疲れ様です。」「ホットでいいですか。」
「おう。ミルクたっぷりでヨロシク。」「できれば搾りたてのがいいなあ。」
時おり、鳥肌の立つ思いがする。露骨な視線が胸元に向けられたのだ。今夜も、閉店時は店長の北村と2人であった。客のはけた店内で、彼がレジ締めをしているのだ。マシンの電源を落とす前に、店長の珈琲を淹れるのがパートの役目となっていた。このところ、遅番に入るたび、この組み合わせだった。平然と口にするセクハラに、気鬱な日々が続いていた。
「珈琲、ここに置きます。」
「明日って、本庄さんも休みだっけ?」
「はい、そうです。」
北村自身が勤務シフトを組んでいるのだ。休みを合わせているのも彼だった。いつになったら諦めてくれるのだろう。智美は、かわし続けるしかなかった。辞めてしまうのは簡単なのだ。だが、それでは履歴書の職歴が増えるばかりだ。いずれはどこかで、きちんとした正社員の職に就きたいと考えていた。転職の数の多さは、決して自分のプラスには働かない。
「どう?今夜あたり。」「ゆっくり酒でも飲んでさ、正社員登用の話とか相談に乗ろうか。」
「あ、ちょっと…急いでますので、すみません。」
「俺なら本部を動かせるんだけどなあ。」「1時間ならどう?帰りはタクシーで送るから。」
休みの前日は、必ずこの種の会話が待っている。正社員の話や、時給のアップをチラ付かせて、執拗なまでに誘いをかけてきていた。一度でも応じれば、必ず誤解してエスカレートさせてしまう。この手の妻子ある男性は、妙な自信を自分に持っているのだ。彼女は、地雷を踏まないよう言葉に細心の注意を払って、今夜も何とか無難に断ることができた。だが、いつまでこの状態が続くのか。セクハラの次は、腹いせのパワハラが待っているのかもしれなかった。職場を離れた途端、意識的についた深いため息が、心優しい雄一の顔を想い起こさせたのである。彼が上司であったなら、ふと、そんな埒もない考えにとらわれていた。

 翔太と彩音が由莉の自宅を訪問したのは、夏休みも終盤の、良く晴れた日の午後だった。彩音が、画伯のアトリエを見たいとねだったのである。大豪邸ではなかったが、それなりの広さが仕事場として1階部分に確保されていた。
「すごい!パソコンでもデザインするんですね!」「由莉さんすごーい!」
「この10円玉は、マウスを重くするためなんだ。」
翔太がそれを指し示した。
「えっ、どうしてですか?」「重くする?」「何でだろう?」
5枚の10円玉が、ビニールテープで貼り付けてあるのだ。
「わしの手先が震えるからじゃ。」
一瞬、彩音は返す言葉が見付からなかった。由莉の重い障害を忘れていたからだ。
「そ、そっか。」「だから、か。」「そうなんだ。」「なる…ほど。」
画伯は、これ以上はないほどのやさしい眼差しで少女を見ていた。障害者自身には、障害者に対する偏見があるはずもない。障害の種類や程度が違っても、皆一様に、人として自然に認め合うことができた。しかし、健常者に対しては、障害者の側にも心の壁があるのだ。それは、コンプレックスからくるものなのか、はたまた警戒心からくるものなのか、自分を人として対等に扱ってくれる相手でなければ、一歩も関係を前へは進められない。障害者として貼られたレッテルを、自ら剥ぎ取ることはできなかった。だが、菊川由莉の場合は違っていた。どんどん前へ出ていったのだ。臆することなく、卑屈にこびることもなく、信じる道を堂々と突き進んでいったのである。だからこそ、より多くの差別や偏見にぶつかってきた。こんなにも近しくなった彩音ですら、二人の間にはまだ距離がある。それでも、懸命に縮めようとする少女の心が、どこか愛おしく感じられて嬉しかった。障害者自身が、それに応える努力を怠ってはならない。彼女はそう考えていた。
「あ…。」
震える指先で、画伯が、少女の手をマウスへと導いたのだ。由莉の手のぬくもりが伝わってくる。自分と何も変わらない。動揺していた彩音の心に、その温かさがふわっと広がった。
「ほれ、揺れが収まるであろう。」
「ほんとだ。」
最後の落款を押す作業が、一番緊張するのだとも教えてくれた。これまで、どれだけ多くの作品を台無しにしてきたことか。独特な由莉のアートを生み出す震えは、彼女にとっての諸刃の剣でもあるのだ。不屈の精神と創意工夫とが、それをも物ともせずに克服させてきた。
「そう言えば。」「大作が完成した頃だって、オヤジが言ってたけど…。」
「ギ、ギクリ。」
画伯の目が泳いだ。
「翔くん、こっちよ!」「2階にもアトリエがあるの!」
「葵さん!」
「なっ、何でじゃ!?どうして我が家におるのじゃ!?」「どっから入った!?忍者か!?」
「大きな物は2階なの。」「神崎彩音もいらっしゃい。階段、急だから気を付けてね。」
「まっ、待て!いきなり2階へ行ってはならぬ!」「たわけ者!わしの家を勝手に案内するでない!」「ハトバスツアーのバスガイドか!?」「何で他人の家に詳しいのじゃ!?」
画伯が慌てふためく理由はすぐに分かった。2部屋続きの広いアトリエは、足の踏み立て場もないほど雑然としていた。いかに作品作りに集中しているかがうかがえる。その奥の正面に、完成したばかりの大きな軸の絵がかけられていた。
「だはははっ!ふっ、普段は片付いておるのじゃ!l「たっ、たまたまじゃ!たまたま…。」
彩音も、翔太も、もはやその作品から目が離せなくなっていた。
「これが、由莉さんの…絵。」
「すごい迫力。」「こんなに大きいの、僕も初めて見た。」
「私…、どうしてかな。」「涙が出てきちゃう。」
心を揺さぶられたのは、もちろん彩音だけではなかった。自らの夢を諦めようとしている翔太にとって、筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えてきた由莉の絵は、どんな言葉にも勝る説得力があった。捨てたはずの、自分の可能性を想わずにはいられなかった。
「わしはのう、翔太。」
敏感に、画伯も何かを感じ取っていた。
「守ろうとするだけでは足らぬと思うとるのじゃ。」
頬伝う涙を拭いながら、彩音も彼女の横顔を見ていた。
「本当に守りたいものがあるなら。」「守れる自分になることじゃ。」
階段に腰掛けていた葵も、黙ってそれを聴いている。
「がむしゃらに、わき目もふらず。」「わしは今日までそうしてきた。」
そして、こう結んだのだった。
「才ある者は才を活かせ。存分に活かせ。」「己が才で、大切なものたちをとことん守り抜くのじゃ。」「今もそう、われとわが身に言い聞かせておる。」「翔太が守りたいものは、もう父親一人ではなくなっておるはずじゃ。」「このわしが、見まちごうておるかのう。」
彩音は、涙を見せまいとする彼の胸の内に想いをはせた。何かを言い当てられたに違いない。才とは、サッカーのことだろうか。画伯は、彩音がいたからこそ口に出したのだ。翔太の中に渦巻く何かを、少女は強く知りたいと願った。

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