親の心|ぬくもり1-25

 夜の都会の表通りは、帰宅の途に就く人の波と、飲食店やショッピングエリアに向かう人の波とが、残暑の居座る歩道の上で縦横にうねりを打っていた。車道ではヘッドライトの灯りが数珠つなぎとなって、そこかしこから、商品コマーシャルの音声や、けたたましいリズムのサウンドが、無秩序に入り乱れて大音響で聴こえてきている。まさに眠らない街のパワフルな光景だった。だが、裏通りに一歩足を踏み入れると、そこは歓楽街へと様相が一変する。派手なネオンサインで彩られた風俗店の看板が軒を連ね、その下を、安月給のサラリーマンたちが千鳥足で行きかっている。同伴のエグゼクティブたちは皆、煌びやかなドレスや粋な和服姿の夜の蝶たちと、秘めごとを予感させ、背徳の期待をいだかせる高級な魔殿へと向かっていた。
「社長、もう一軒!」「ね!」「もっと若い子のいる店があるんですよ!」
白石勝は、今夜も歓楽街の熱気の中にいた。
「ぜったい社長好みの子がいますから!」「俺をオトコにしてやって下さい!」
毎夜の接待は嘘ではなかった。
「騙されたと思って、ね!」「付き合って下さいよーっ、社長!」
遥香からは、離婚する気は全くない。とにかく会って話がしたいと、何度も繰り返して、同じ内容のメールが届いていた。無論、彼の側にもそれに応じるつもりが全くない。法的手段に訴えてでも、必ず離婚してやると息巻いていた。何故、こんなにも短絡的なのか。自ら妻に突き付けた三下り半(ミクダリハン)に驚いていた。嫉妬に狂うと言うことは、それだけ愛していると言うことなのだ。ずっとくすぶり続けてきた疑いの念が、膨大な憎悪をため込んでいたのかもしれない。可愛さ余って憎さが百倍。最低の別れ方で、彼女の華麗なキャリアを傷付けてやりたかった。自分がただのピエロではないことも、勇ましい雄たけびを上げて思い知らせてやりたかったのだ。否、違う。真の理由はそうではなかった。彼は試したかったのだ。一縷の望みをかけて、遥香の気持ちを確かめてみたかったのである。それが児戯に等しいやり方でも、追い込まれた勝には、わらをも掴む思いであった。愚かと言えばこの上もなく愚か。どこかに、遥香のやさしさに対する甘えがあるのだ。離婚に応じるはずがない。そう考えていた。非常手段に訴えることで、彼女に非を認めさせ、猛省を促して悔い改めると誓わせたかったのだ。もしも、これで駄目ならしかたがない。一か八かのやけっぱちの勝負でもあった。
「どうしたのかね?」「おいおい白石君、私の声が聴こえとるかな?」
時が止まっていた。一切、何も聞こえない。目の前を、にわかには信じ難い二人連れが、親し気に腕組みをして、彼には気付かぬまま通り過ぎたのである。白石勝は、自分の目を疑った。

 神崎家は、夜にも異変が起きていた。光太郎の帰宅を待ちかねていた静江が、愛娘から相談された内容を、心配そうな声色で話し出したのである。
「お母さんも何かの病気で亡くなってるらしいの。」
思い余って相談したのだ。京奈や果歩の情報網で、翔太が就職相談していることまでは突き止めた。どうやら、卒業後はサッカーをやめてしまうつもりのようなのだ。彩音には彼の気持ちが分からなかった。せっかくの“才”を、なぜ自分から捨ててしまうのか。もしかしたら、家庭の事情なのかもしれない。夜も眠れないほど考え込んで、静江がどう思うのか、自分はどう考えたら良いのか、答えを求めずにはいられなかったのである。
「全盲、かあ。」
さすがの光太郎も、しばらくの間は絶句していた。まだ、彩音は高校一年生ではないか。先々のことまで危ぶんで、今すぐ結婚がどうのと心配する年齢ではない。だが、聞いてしまった以上は、さまざまなことに思いが及んで、抑えがたい老婆心が働き出していた。目の中に入れても痛くないほど可愛い娘が、万が一にも自ら不幸を背負い込むようなことがあってはならない。三年や五年はあっと言う間だからだ。迂闊な判断は禁物だった。
「お前、何て答えたんだ?」
静江は即答を避けていた。きちんとした考えもないまま口を開けば、交際をやめるよう、つい説得してしまうかもしれない。どう考えれば良いのか、彼女自身も分からなかった。
「そうか。」「とりあえす正解だったんじゃねえか。」
将来的な仮定の話をしても、恋する娘にはむしろ逆効果に思えた。それ以上に、彩音の初恋を、悲しい思い出にさせたくはなかった。まさかに交際を始めた相手が、全盲の視覚障害者の息子であるなど、夫婦にとっては驚天動地の衝撃だったのだ。まずはそれをどう受け止めるべきなのか。二人の心が定まらなければ、彩音の悩みにアドバイスのできるはずもない。
「とは言え、ほっとくわけにもいかねえし…な。」
「あの子に何て答える気?」
「ちいと考えさせてくんねえか。」「俺ら夫婦も、彩音も、一生後悔しねえようにさ。」

 母の履歴を覗き見るのは、これが初めてではなかった。スマホはバッグの中だった。一馬は、北村と言う店長から届いたメールを、智美の入浴中にチェックしていたのである。しだいになれなれしい表現が増えている。この男と、どんな関係になっているのだろう。北村が転勤してきた頃から、母の携帯への着信が気になり出していた。こちらからは、ほとんど返信していない。返ってそれが、多感な年頃の少年の妄想をかき立てていた。
「一馬も続いて入ってね。」「下着、いつものとこに置いとくわよ。」
少年時代の男の子にとって、母親は一番近い異性であった。思春期を迎えた頃には、多かれ少なかれそれを意識させられ、ある種の“女性”の基準として受け入れていくのだ。母子家庭であれば、清くてけがれのない存在であってほしいと望むのが当然だった。だが、他の男の存在が、異性であることを見せ付けてしまうと、たちまち嫉妬の念がわき起こってくる。智美のように、まだ若く、男好きするタイプの女性であればなおさらだった。
「夏休みの宿題は?」「ねえ、全部終わったの?」
今夜も、部屋からは返事がかえってこない。
「寝ちゃったの?」「お風呂入りなさい。お願いよ。」
どんどん息子が遠くなる。彼女はそう感じていた。暴れるわけでも、暴言を吐くわけでもなかった。それでも、心のすれ違いが鮮明となる一方なのだ。一馬の気持ちを知る由もなく、孤独な閉塞感の中で、智美はまたも大きなため息をついていた。

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