明日|ぬくもり1-26

 遥香は、例えようのない無力感に打ちひしがれていた。ピアサポーターとして活動を始めて以来、こんなに自分を小さく感じたことはない。がん患者の心と向き合いながら、今日まで、微力ではあるが全力でサポートしてきた。相談者の知らないこと、知っておくべきことを、受け入れやすい表現で、分かりやすい言葉に換えて、微に入り細を穿つような粘り強さで伝えてきていた。暗闇の中で心折れそうな患者に、小さな灯りをともして上げられればいい。そう信じて、天命を果たしてきたつもりでいたのである。しかし、どんなにサポートしても、進行するがんを食い止めることにはつながらなかった。最新の知識や過去の治療体験も、自らが直面したことのない“死の恐怖”の前では、ほとんど無力なガラクタに思えたのだ。彼女は皮肉にも、それを職場の仲間(ピア)の、末期がんによって思い知らされた。もうピアサポーターを続けていけないかもしれない。砂上の楼閣が足元から崩れ去る。遥香はなすすべなく、そんな虚しい想いに支配されていた。
「支配人…。」
和代は、病室前の廊下を、母親と一緒に歩いていた。腰にはまだ、ドレンの袋がぶら下がっている。リハビリのための歩行を、医師や看護師から求められたのだ。
「少し話せる?」
「はい、大丈夫です。」
2人は、休憩所の窓際に座った。
「聞かれましたか?」
「ええ。」
和代は、窓の外を眩しそうに見ていた。
「全身に転移していて。」「もう手術は無理だそうです。」
「うん…、聞いた。」
「隆、何か言ってましたか?」
すぐには言葉を返さなかった。伝えて良い部分を、とっさに再確認したのだ。
「抗がん剤のことを、いろいろと訊かれて。」「それから、退院後のことや…。」
「何て答えたんですか?」
「え…。」
「私が死んじゃうのかって訊かれて。」「支配人は、何て答えたんですか?」
視線を交わさないままの沈黙が、永遠ではないかと思えるほど続いた。和代は意地の悪い質問をせずにはいられなかったのだ。医師の告げた現実を、心が受け入れられなかった。自分の夢も、隆との将来も、母の希望すらも、風前の灯となってしまったのだ。誰かのせいに、何かのせいにしたかった。せめても自分の悔しさを、心を通わせ合ってきた遥香にだけは、どうしてもぶつけずにいられなかったのである。
「まだ。」
ここが遥香の正念場だった。
「何も決まってない。」
ひとつ言葉を間違えれば、和代の心が壊れてしまう。心が壊れてしまえば、病魔の思うがままだった。奇跡につなぐ、一縷の望みさえも潰えてしまうに違いない。
「決まってないのよ、何も。」「未来のことなんて、誰にも分からないわ。」
神様。むごい仕打ちだと思ったこと、片手落ちだと思ったこと、今、全てを取り消します。もしもお怒りであるなら、私.に重い罰をお与え下さい。だからどうか、どうか石川和代の命を奪わないでほしいのです。わずかな歓びを、ほんの少しの幸せを、どうか、この世に生まれてきて良かったと、頑張っていれば報われるのだと思わせて上げてほしいのです。
「死にたくないです!」「私、生きていたい!死にたくない!」
神様、どうかお願いです。あなたが引き換えにすると言うなら、私の明日を差し出してもかまいません。だから、どうか、この子の命だけは奪わないで上げてほしいのです。自分の胸にしがみついて、赤子のように泣きじゃくる和代のために、遥香はそっと抱き締めて、心の中でそう祈ることしかできなかったのである。.神様、どうか。神様、お願いです。どうか…。

 昼寝を始めた彼は、昔懐かしい夢を見ていた。孝子と知り合った頃の、勢いにあふれていた若かりし日々の夢だ。彼女が生まれたのは、由緒正しき家柄の旧家だった。祖父が陸軍少将を務めたほどの名家で、4姉妹の末っ子として、なに不自由のない暮らしの中で甘やかされて育ったお嬢様だったのである。当時の雄一は札付きのワルだった。大型バイクを乗り回し、ナンパと喧嘩に明け暮れていた。2人は赤い糸を手繰り寄せ、出逢った瞬間、燃えるような恋に落ちたのだ。孝子は彼のために家を捨て、雄一は彼女のために札付きのワルを捨てた。三畳一間を間借りして、貧しいながらも、愛と希望に満ちた毎日だったのだ。愛娘の志緒(シオリ)が生まれた頃には、社会人野球で名を上げ、勤めていたミシンメーカーでも出世街道を驀進した。本当の幸せとは、愛する者がそばにいて、たくさんの笑顔をずっと眺めていられることではないだろうか。雄一と孝子の人生は、まさにその幸せに彩られていた。
『お父さん。』
その日を境に、孝子は自分をそう呼ばなくなっていった。
『警察…から、志緒が…。』
小刻みに震える手から受話器をもぎ取った。
『もしもし、はい、志緒はうちの娘です。』
相手は、飲酒運転の会社員だった。猛スピードで、部活帰りの自転車を跳ね飛ばしたのだ。
『分かりました。すぐに向かいます。』
高校2年の春。その日のうちに、愛娘は黄泉の国へと旅立った。
「こんな時間か。」
もうすぐ正午だった。孝子はデイケアセンターだった。しだいに奇行が減って、ヒステリーも起こさなくなってきている。夫婦の会話も、以前よりかみ合うようになってきた。もしも志緒が生きていたなら、智美の息子くらいの孫がいて、時には賑やかな盆暮れや、楽しい行事に参加できていたのかもしれない。毎日の喜怒哀楽の幅も広がり、その子の“将来”について、あれやこれやと語り合ってもいたのだろう。だが、今の夫婦には、過去しかなかった。その過去すら、孝子は忘れ去ろうとしているのだ。雄一は、マジックのタネを仕込み始めた。実の娘のように感じる智美とのボランティアだけが、彼にとって唯一の、今日を生きるために必要な“明日”と言う目的なのだった。

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