心の底|ぬくもり1-27

 生木を裂くようなことをすべきではない。悩みに悩んで、それが、神崎光太郎の出した結論だった。夫婦は夜明け近くまで話し合い、未熟であっても、自分たちの娘を信じることに決めたのだ。夏休み最後の晩に、彼は、彩音の部屋へと階段を上った。
「ヤング…ケアラー?」
父はあくまで想像だとした上で、翔太の置かれているであろう状況を解説した。
「そうなの?」「ヤングケアラーって言うんだ。」
「たぶんな。」「てめえの夢諦めて、親父さんの面倒みようとしてんじゃねえか。」
すぐに合点がいった。彩音の中のいくつかの情報が、1本の線で結ばれたのだ。
「重い話だ。」「他人が首突っ込んで、軽口のたたける話じゃねえ。」
“他人”と言われたことに気が沈んだ。確かにその通りだからだ。家族の立場から見れば、自分は赤の他人に過ぎない。しかし、どうしても翔太の胸の内が知りたかった。自分にも何かできるのではないか。ずっと真剣に考えてきたのだ。少女にとって、父の放ったひと言は、出しゃばるなと言っているに等しく聞こえたのである。これでは、何のために打ち明けたのか分からない。ほっとけるくらいなら、最初から相談したりしなかった。
「おっ、なんだ。上から物言われてへこんだか。」「泣くんじゃねえぞ。」
勉強机の椅子に腰掛けた光太郎が、ベッドの上で膝をかかえる娘を楽しそうに揶揄した。
「別に…。」「なんとも思ってないし…。」
そして、ニヤリと意味有りげに笑ったのだ。
「とまあ、ここまでは一般論だ。」「こっから先は、耳の穴かっぽじってよーく聴きな。」
彩音は、今にも本当に泣き出してしまいそうな表情だった。
「何でその、一番人気のモテモテ野郎が、おめえみてえなソコソコなのを選んだと思う?」「図書館で目の本見てたぐれえで、おめえなんぞに一目惚れしちまうと思うか?」
「はあ?」「何その言い方?」「メッチャ傷付くんですけど!」
「ちったあ頭を使えってんだ。」「選んだからにゃ、それなりにワケってもんがあらあな。」
「えっ、どんな?」「ワケって何?」
「んなこたあ、俺に訊いたって分かるわきゃねえ。超能力者じゃあるめえし。」
「あのさ。言ってることムチャクチャ。」「意味不明。理解不能。」
「ふん、まだピンとこねえのか?」
「くるわけない。」
「そのモテモテ野郎にとって、神崎彩音は“特別”だったってことじゃねえのかい。」
彩音はようやくピンときた。おぼろげながらに、父の言わんとすることが見えたのだ。
「私が、…特別?」
「おうよ。おめえを特別に感じたからこそ、ソコソコでも惹かれたんだ。」「おめえみてえなカサツで泣き虫のどこが特別なのか。そいつは本人に訊いてみなくちゃ分かんねえ。」
光太郎の眼差しが変わった。見たことのない、凛とした父の眼差しだった。
「いいか。ただの興味本位なら、中途半端に入り込もうとすんじゃねえ。」「他人がしゃしゃり出ても、最後まで責任のとれる問題じゃねえからな。」
自分を一人前の人間として話してくれている。それが彩音にも伝わってきた。
「でもな、彩音。」「本気でそいつの心の支えになってやりてえと思ってんなら、ゴチャゴチャ言ってねえで、てめえのほうからフトコロに飛び込んじまうんだ。」「なりふり構わす、えいやあって感じで、おめえの正直な気持ちを思いっ切りぶつけてみな。」「おめえにならできる。てか、おめえにしかできねえのかもしれねえ。」「神崎彩音にしかな。」
「パパ…。」
「心の底じゃあ、おめえに聞いてほしいと思ってる。」「こいつだけは間違いがねえ。」
見る間に、彩音の目が真っ赤になった。
「恋に遠慮はご法度だ。」「ほんとに惚れてんなら、一歩も後ろへさがんじゃねえぞ。」
霧が晴れた。娘の心に、彼の熱い言葉がストンと落ちたのだ。
「何か…。」「今日のパパ、すごくかっこいい。」
見る間に、今度は光太郎の顔が真っ赤になった。
「バッ、バッカヤロウ!」「おっ、親、おだてんじゃねえや!」「照れんじゃねえか!」
「マジでだよ。」「生まれて初めてそう思ったもん。」
「生まれて初めて!?」「はっ、ははっ、ははははっ…。」
階段の途中で聴いていた静江も、クスクスと楽しそうな笑みをもらしていた。

 気弱になっている時ほど、追い打ちをかけるような事態が待っている。今朝、ホテルの客室で、若い男性客の首つり自殺があったのだ。ワードローブの中で、発見した時には既に息絶えていた。遥香自身がチェックインの手続きを行ったゲストなのだ。朝食もきちんと済まされていた。だが、チェックアウトの時間を大幅に過ぎても、フロントには現れなかったのである。内線や携帯を何度もコールして、フロントクラークが部屋のドアを大声でノックしたのだ。遥香が呼ばれたのはそのあとだった。最後の手段は、強行突入するしかない。何かの事情で、意識不明に陥っている場合もあるからだ。吊られたままうなだれている男性客の横顔が、無力感から逃れられない彼女の目に焼き付いてしまった。
「だから大丈夫よ。何にもないわ。」「そんなことないって。心配し過ぎ。」
母からの電話にもイラついていた。勝との不仲を見抜かれているのだ。
「今夜は疲れてるの。」「いろいろあるのよ、私にだって。」「ほんとにくたくたなの。」
生きたくても、生きられない命があった。生きられるのに、自ら絶ってしまう命もあった。なぜ究極の選択をしたのか。知りたい気持ちと、許せない気持ちが混在していた。きっとどこかに、その死を悼む者たちがいるはずだからだ。遥香の心は不安定になっていた。勝からは、未だになしのつぶてなのだ。彼の顔と、自殺した若者の顔とがオーバーラップしている。身勝手な行為が、2人を同類に感じさせ、和代への深い想いが、憤りや怒りとなって込み上げていた。その上に、このところ毎夜のごとき、実母の追及が執拗に覆いかぶさってくるのだ。
「分かった分かった。」「年内には一緒に帰るから。切るよ。いいわね。」「お休みー。」
砂上の楼閣だけではなかった。勝への愛さえも、不確かなものに思えてきたのだ。自分を信じてくれない夫と、この先、どうやってやり直せばいいのか。否、他の女の影が見えるも、決して思い過ごしではないのだ。頭の中も、心の中も、混沌としてグチャグチャだった。
「やっぱりナイトマネージャーの日だわ。」
山岡からのメールに、心救われる想いがした。遥香は翌月の夜勤の予定を確認したのだ。
「今度は代わってもらおうかなあ…。」
夜勤の晩であれば、帰宅の時間を気にせず、心置きなく2人で過ごすことができる。何も知らない山岡なりの、部下の夫に対する気配りに思えた。ビジネスホテルにでも泊まるか、いざとなれば女子の仮眠室に転がり込むこともできる。あの話の、その後の状況を聞いてみたかった。白羽の矢を立ててもらった自分の気持ちも、そろそろ前向きに固めていかなければならない。そのためにも、彼の口からさらなる情報を仕入れておきたかったのだ。そして何より、石川和代の今後のことを、丁寧に話し合っておきたかった。
「了解。誰かに代わってもらいまーす。」「送信、と。」
遥香は、心の底に秘めてきた感情が、急激に膨らみ出すのに気付いていた。今さら盗撮されることを怖れるよりも、山岡と過ごすアサーティブな時間を望んでいた。リビングのテーブルに置かれたままの離婚届を、バッグにしまい込んだのもこの晩だった。

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