うぬぼれ鏡|ぬくもり1-28

 いつになく浮かぬ顔で帰宅した圭一郎は、妻との会話もそこそこに、2階の書斎に閉じこもっていた。パソコンの画面と睨めっこしながら、ある特殊な病について調べ始めたのだ。かるがもの騒々しさとは対照的に、彼の日常は“静けさ”に満ちている。障害者ボランティアに傾倒してからは、規則正しい生活を旨とし、大好きなアルコールも週に2回と決めていた。現役時代の彼は、世界に冠たる一流企業で、海外勤務の要職を歴任した文字通りのエリートだったのである。だが、心の中には常に違和感があった。大きな仕事を任されるほど、それが、自らに課せられた天命ではないと感じていたのだ。自身が得意としたパソコンで、障害者の支援ができないか。そう考え出していたのも、その当時のことだった。
「これかあ…。」
障害者支援のためのボランティア。社会的には耳障りの良い、いかにも市民権を得た感がある。だが、実際に支援を始めてみると、そこは四面楚歌の、一般の社会からは切り離された驚くべき別世界だったのだ。まず、頼みの綱となるべき行政の反応が鈍い。差別や偏見をなくすどころか、彼らの誤解と無作為が、それを助長している事実さえあった。障害者は一人一人、それぞれに求めるものが異なっている。フレキシブルに対応してくれなければ、基本的なサポートすらもおぼつかなかった。その直談判に、相応の時間を要したのだ。そして、障害者自身のネガティブな物の見方、考え方だった。障害者が消極者に見えていた。応援すべきはずの家族さえ、それを是として自ら現状を変えようとはしない。固く門を閉ざしていたのだ。障害者にパソコンを教えることの意味から、家族に説明し、丹念に理解を求めなけれなならなかった。かるがもの船出は壮絶を極めた。ようやく教室が軌道に乗り始めると、夜討ち朝駆けで、パソコンをフリーズさせたメンバーから、パニック状態でSOSが入ったのだ。気力も体力も、精も根も尽き果てるほど、真剣勝負の格闘の毎日だった。正村圭一郎の熱い想いと、そこに集ってくれたサポーターたちの心意気がなければ成し得なかった、まさに泥まみれ、汗まみれの、障害者支援のためのボランティア活動の船出だったのである。
「ちょっと、いいか。」
彼は、妻の八重子に事情を打ち明けた。
「そう。」「今夜のお悩みはそれね。」
自立の困難な障害者の場合、自然と、その後の人生にまで深く関わっていくことになる。特に、難病をかかえる20代の女性ともなれば、圭一郎自身の年齢を度外視するわけにもいかなかった。将来的なサポートを、どう継続していくのか。今すぐに、長期的な支援を約束して、本人や加速を安心させて上げられるわけではない。ごく稀なケースであるだけに、齢を重ねた圭一郎にも、いくばくかの迷いが生じていた。
「ずいぶんと弱気じゃないか。」「さすがの正村圭一郎も年には勝てないのかい?」
「ははっ、そう言う話じゃない。」「将来のことを案じてるんだ。」
「はあ~あ、やだやだ。これだから四角四面の男は面倒だ。」「おい、正村圭一郎!」
「はいはい。」「何でございましょうか?」
正村八重子は、かるがものメンバーから、“肝っ玉母さん”と呼ばれて慕われている。才女であると共に、人間としての器がでかい。かるがもを陰で支えるミラクルパワーの持ち主だった。なぜか15分にきっちり収まる、恒例のお説教が始まったのだ。それが、圭一郎にとっては心地良かった。おもろきかなおもろきかな、夫婦とは異なものだった。
「圭一郎の真価は、火傷するくらい熱いところだ!」「違うかい!?」
「はい、おっしゃる通り。」
うぬぼれ鏡。微妙なガラス面の凹凸なのか、差し込む光の加減なのか。視覚障害者以外の晴眼者には、家のどこかに、あるいは街のどこかに、自分に見とれてしまうお気に入りの一枚がある。自らに自信を持たせてくれる特別な鏡なのだ。彼にとっての八重子が、まさにその“うぬぼれ鏡”だった。心に曇りが生じた時、彼女の言葉は核心を突いてくる。そして最後に、圭一郎の泣き所もやさしく突いて、彼の自信と想いを取り戻させてくれるのだ。
「よしっ!それでこそ、私が惚れた正村圭一郎だ!」「やっぱり、いい~男だねえ!」

 追伸のメールを開いた山岡幸三は、バランタインのロックを、ダブルで一気に飲み干した。離婚するかもしれないと、2人きりで過ごす前に、わざわざ予告してきたのである。思わせぶりとも受け取れる遥香の文面が、長年、この時を待っていた彼の期待を大きく押し上げた。
「へえ。」「ようやく別れる気になったのねえ。」
スマホの画面を確認していた。
「ふふふっ、これでもう、完全にあなたのものだわ。」
倉本冴子(クラモト サエコ)。妖艶な色香の漂う、幸三とは30年来の腐れ縁の仲の女性だった。
「約束通りプレゼントできて良かった。」「乾杯しましょ。」
手にしたワイングラスには、深紅のシャトームートンが注がれている。彼女のまとう白いスーツが、そのコントラストを際立たせていた。悪女と呼ぶにふさわしい、どこか謎めいた香りのする、危険なタイプの女宰相なのだ。カウンター席で、寄り添うように腰掛けていた。
「まだ分からんさ。」「身持ちの堅い奴だからな。」
「大丈夫よ。旦那のほうは、この子がぎゅって握ってるから。」「ね、美玖ちゃん。」
エグゼクティブだけが会員の、彼女が経営する高級ナイトクラブであった。
「はーい!マサくんは美玖にメロメロでーす!「ふふふっ!」
20代の森川美玖(モリカワ ミク)が、カウンターの内側で、小悪魔的な笑みを浮かべていた。
「離婚が成立したら、すぐに別れなさい。」「しばらく海外にでも行かせて上げるわ。」
「はーい、ありがとうございまーす!」「もうウンザリしちゃってまーす!」
冴子は、多岐にわたる事業を幅広く展開していた。浮気調査が専門の探偵社も、その中のひとつなのだ。遥香に疑いを持つ夫を、美玖がけしかけて依頼させた。誘惑したあとで、妻への強い不信感に気が付いたのだ。先回りのベストショットは仕組まれていた。幸三との事前の打ち合わせがなければ、2人がどのフロアでショウルームするかなど、追跡する側の調査員に予測のできるはずもない。低層階に1つしかない身障者用の客室を、彼が、ショウルームのコースに入れるよう、視察するホテルの総支配人に申し入れておいたのである。手際の良い証拠写真は、彼らの巧妙な連携でねつ造されていた。遥香は、罠にはめられたのだ。
「夜景の綺麗なオーベルジュなんてどうかしら。」
「君が先月オープンさせた、あそこか。」
「ええ。ここから近いわ。」
ロックグラスのカチ割りが、心弾ませるように涼し気な音を立てた。
「あとは私に任せて。彼女をうっとりさせて上げる。」「ふふっ、待ち遠しいわね。」
彼らは、表と裏の関係だった。全国に展開しているホテルの人材派遣を、彼女の会社が一手に引き受けているのだ。全チェーン店へのリネンサプライやアメニティグッズの供給から、セントラルキッチンでの食材の仕入れに至るまで、実態は冴子の経営する企業に、ほとんど全てが委託されていた。政治力のある幸三と、手を汚すことを厭わない彼女のタッグが、莫大な利益を生み出しているのだ。海外プロジェクトの巨大な利権を前に、.彼が渇望する手弱女(タオヤメ)一人を、陰湿な罠にかけるくらいは造作もなかった。あの晩、歓楽街で勝が目撃したのは、総支配人の山岡と腕組みをして、楽しげに笑顔で歩く美玖の姿だったのだ。
「今夜も若い子がいい?」「それとも。」
妖しい冴子の手が、彼の膝上を這った。
「久しぶりに…。」

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック