白い翼|ぬくもり1-29

 智美の我慢は、限界に達していた。北村のセクハラがエスカレートしているのだ。彼が暴走を始めたのは、先週の晩に行われた正社員の送別会からだった。何かと店長の言動から彼女を守ってくれた女性調理長の、異例な時期での転勤が急に決まってしまったのだ。運悪く、智美が休みの日であった。たまった洗濯物に掃除、銀行に買い物、諸々の用事を済ませたあとで一馬の夕食の支度と、瞬く間に時が流れて、少し遅れて会場の居酒屋入りしたのである。狭い座敷の一番奥で、北村の隣だけが空けられていた。憮然とした表情の調理長からは遠く、壁との間に挟まれる場所だった。その後の2時間は、思い出すのも忌まわしい。何とか2次会のカラオケだけは逃れたが、皆の死角を計算した北村のやりたい放題だったのだ。
『ごめんねえ。店長が勝手に席決めちゃったから。』『ほんとにごめん。』
智美の帰り際に、調理長の女性が近付いてきた。蒼ざめた彼女にそう呟いたのだ。
『あたしが邪魔だったのよ、あいつ。ここまでするかって感じ。』『本庄さん、マジでヤバいかも。気を付けないと、何されるか分かんないわ。』『お~、考えただけでぞっとする。』
新たな調理長は、北村の息のかかった男性だった。日ごとに大胆となる彼の行為を、気付かぬふりで、チラチラと横目で眺めて楽しんでいるのだ。智美はロッカーの異変にも気付いた。休みの翌日、明らかに誰かが鍵を開けて、微妙に中の私物を動かした跡がある。寒気が走った。いざと言う時のために、生理用品や替えの下着を用意していたからである。もちろん、合鍵の管理は店長がしていた。忌まわしさにおぞましさが加わった。
「ありがとう、助かった。」「いつもすまんね。」
智美は、運び上げたビールの箱を、いつもの場所に積んでいた。
「あっ、こんな時間なんだ。」「奥さん、そろそろ戻ってみえますね。」
雄一の前では、努めて明るく振る舞った。だが、本当は、心が涙に溺れてしまいそうなのだ。もう、店を辞めるしかなった。今の自分が、憐れなだけの女に思えてしかたがない。夫を亡くすと同時に、彼に愛されていた本庄智美も失くしていた。どんなに努力しても、傲慢な誰かに振り回される。精一杯に稼いだお金も、生活のために全部消えていた。最愛の息子との距離も、開いていくばかりなのだ。何のために、誰のために生きているのか。自分が何者なのかも分からなくなっていた。明日に何があると言うのだ。明日は、今日よりもっとひどい一日が待っているのかもしれない。明日に夢見るものが何ひとつなくなっていた。
「ただいまーっ!」
孝子の元気な声だった。玄関の鍵はかけてない。デイケアセンターのスタッフの声がした。毎度、扉の前まで付き添ってきてくれるのだ。ガチャンと扉の閉まる音がした。
「じゃあ、私はこれで。」「またメールしますね。」
「そうかい。珈琲でも淹れようかと…。」
智美が丁寧に断って、ゆっくり腰を上げた時だった。
「誰だお前!?」「ここで何してた!?」
「あっ、いえ!」「きゃっ!」
阿修羅と見まごう形相で、雄一と智美を睨み付けたのだ。あたかも不倫現場に乗り込んだかのように、烈火のごとき怒りを爆発させたのである。すぐには立ち上がれない彼の前で、孝子が彼女につかみかかった。智美の髪を引っ張って、その顔に噛み付こうとしたのだ。
「逃げなさい!」
自分の妻から“逃げろ”と、思わずそう叫んでいた。
「でも!」
初めて目にする修羅場であった。
「いいから!早く!」「いいから!」
どこにこんな力があったのか。智美が飛び出すまでの時間を、盾となった雄一が必死に踏ん張った。その後がどうなったのかは言うまでもない。孝子の怒りは、彼へと向かったのである。智美は、自分の車に駆け込んで、ハンドルにすがり付いてガタガタと震え出した。凶暴化した孝子の姿に怯えているのではない。雄一と過ごす穏やかな時間を、あんなにやさしかった孝子が滅茶苦茶にしたのだ。その地獄絵図に震えが止まらなかった。涙があふれ出た。ついにはハンドルに額を押し当てて、どうしようもない悲しみに、深く果てしもなく独り落ちていったのである。

 大畑家(オオハタケ)は、旧街道沿いの、少し奥まった位置にその居を構えていた。亡き妻の父、孝信(タカノブ)は、この辺りでは知らぬ者のない、地元の有力企業の会長だった。宏之が彼と会うのは、母の明代(アキヨ)から仇のように睨まれた、由紀子の告別式の日以来だったのである。宏之の両親は既に他界していた。翔太を大学に行かせるために、彼が頭を下げられるのはここしかなかったのだ。どんなに蔑まれて、冷ややかな扱いを受けようとも、息子の未来を切り拓くためにはこれしかない。土下座も覚悟で訪れていた。
「どう、でしたか?」
瑞希は、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「お義母さんには、やっぱり会ってもらえませんでした。」
「そう…ですか。」
「翔太に合わせろ。それが条件だと。」
心の痛みが伝わってきた。どんな言葉にたえてきたのだろう。胸の潰れる思いがした。
「でも。」「これであいつを、大学へ行かせてやれます。」
「はい。」
2人はバス停にいた。
「あっ、バスが来ました。」
彼らの他に乗客はなかった。駅へと向かう道すがらも、宏之は終始無言だったのである。男のメンツとか言われても、女の自分には正直よく分からない。それでも、彼の口惜しさだけは察するにあまりあった。視力さえ奪われてなければ、今頃は、勤めていた会社でそれなりの地位と収入を得ていたはずだからだ。自分の実力だけで、堂々と息子を進学させていたに違いない。借りたお金は徐々に返すと言っていた。就職のメドも立たない中で、どうやってやり繰りしていくつもりなのか。瑞希もまた、口に出したくなる言葉をぐっと呑み込んでいた。
「ちょうどいい電車の時間でしたね。」
「ええ。」
無表情な顔が、かえって哀しく見えた。
「ねえ、多賀さん。」
「はい。」
「どこかで甘い物、買って帰りませんか?」
「甘い物?」
彼が好んで食べないことは知っていた。瑞希がそれを知っていることを、彼も分かっていた。
「私、お酒が飲めないでしょ。」「だから、一緒にヤケ食いしてもらってもいいですか?」
自分がヤケ酒を飲むタイプではないことも、彼女は十分に知っているはずだった。宏之は瑞希の意図に気が付いた。翔太のために金の工面ができて良かったではないかと、そう慰められていたなら、逆にヤケ酒を呷りたくなっていたかもしれない。だが、当事者でもない彼女に、ヤケ食いすると言われたら笑うしかない。とことん落ち込んでいた自分が恥ずかしくなった。
「ヤケ食い、かあ。」「したことないなあ。」
「パアッと景気よく!」「一緒に3キロくらい太っちゃいましょう!」
「はははっ、あとで思い切り後悔しますよ。」
「はい!」「死ぬほど多賀さんを恨むと思います!」
「あっ、それ恐いな。」
もしかしたら、瑞希は魔法使いなのかもしれない。宏之は心の中でそう呟いた。一瞬で、彼の心の色を変えてしまっていたからだ。否、魔女だと言ったらむくれるだろう。天使だ。きっと白杖を白い翼に変えてくれる心やさしい天使なのだ。自宅にたどり着くまでの2人の時間が、彼にはまるで、真っ白な大空に浮かんでいるかのように感じられていた。

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