誘惑|ぬくもり1-31

 小高い丘の上に立つ真新しい白亜のオーベルジュからは、暖色系にライトアップされたヨットハーバーやリゾートホテル、それを取り囲むコテージとコンドミニアムの寒色系の灯りが、入り江全体にも映し出されて煌めいて見えている。ドレスアップした遥香がエスコートされたのは、それらを一望できるVIP専用のプライベート・ダイニングだった。
「綺麗…。」「素敵。」
「気に入ってくれると思った。」
広いガラス戸に歩み寄る彼女の両肩を、後ろからそっと、やさしく包み込むように掴んでいた。遥香がチェックインした客室には、お洒落なアクセサリーとコーデされたフォーマルなドレスが、いくつものパターンで用意されていたのだ。山岡とのディナーに選んだのは、大きく肩や背中の開いた挑発的な黒のイブニングドレスだった。スレンダーなラインの白い素肌が、心はやる彼の目に眩しく見えていた。
「君こそ綺麗だ。」「ほんとに良く似合ってる。」
「総支配人…。」
「今夜は山岡と。」「君と過ごせて嬉しい。」
夜景とプライベート・ダイニングとの間には、美しいイングリッシュガーデンがあって、幻想的なレーザービームが巧みにライティングされていた。彼女のために用意された、一夜限りの演出なのだ。柔らかなクロスのかけられたディナーテーブルには、香りが料理の邪魔をしない清楚なブーケと、魅惑の夜を予感させるフローティング・キャンドルの灯りが添えられていた。今夜の食材は、わざわざ遥香の故郷から“地もの”を取り寄せ、思わず微笑んでしまうような、ノスタルジックで郷愁を誘う懐かしい味付けがなされている。ソムリエがセレクトしたのも、ホテルに入社した年のものだった。つまりは、2人が初めて出逢った年の、アニバーサリー・ビンテージ・ワインと言うわけなのだ。
「如月(キサラギ)遥香君に。」
フルートのシャンパングラスで、ロゼ色のシャンパーニュが小さな泡音を立てた。
「旧姓で呼ばれるの、何年ぶりかしら。」「うふっ、まだちょっと恥ずかしいです。」
BGMには潮騒が散りばめられていた。ここまでされて、胸ときめかぬはずもない。あの凛々しい山岡の眼差しの前で、乙女にかえった遥香の心は、うっとりと、とろけるように惑わされていったのである。会話は、どこまでもどこまでも弾んで止まらない。ほろ酔いが、彼女の頬をうっすらと、艶めくような紅いに染めていた。
「ああっ、夜風が気持ちいいーっ!」
ディナ-の後に、彼がイングリッシュガーデンへといざなったのだ。
「如月君…。」
見詰め合う瞳に、秘めたる想いが満ちていた。
「遥香って、呼んで下さい。」
「遥香。」
「嬉しい。」
大人のシルエットが、ゆっくりと重なった。他には何も望まない。想いはひとつとなっていた。ほとばしる情熱を、焦がれる想いを、愛しい相手に夢中で伝え合ったのである。

 全く連絡が取れない。森川美玖が消えたのだ。アパートの鍵まで取り換えられていた。彼女が働いていたはずのキャバクラでも、短期の臨時雇いだから何も分からない、けんもほろろにそう門前払いされたのだ。心当たりは残らず捜した。本当に神隠しにでもあったのか。まさに忽然と姿を消してしまったのである。彼は、あの晩目撃したことをうやむやにしていた。きっと、山岡も彼女の店の客なのだ。水商売の女である以上、いちいち目くじらを立てて問い詰めるべきではない。そう思い込もうとしていた。だが、こうなってみて初めて、何かがおかしいと思い始めたのだ。気付いたときには、明りの消えたマンションの前にいた。もう、帰れる場所はここしかなかった。遥香に頭を下げて、やり直すしかなかったのである。
「おい冗談だろ。」「マジかよ。」
遥香の物が見当たらなかった。大きな嫁入り道具も、クローゼットの中身も、歯ブラシの1本までもが、跡形もなく運び出されていたのだ。まさかの事態に、勝は動転した。慌てて、震える指先で携帯を鳴らしたのだ。留守番電話に切り替わった。何度試しても同じであった。へたり込むようにしてソファに腰掛け、すがる思いでメールもしたのだ。待てど暮らせど返信がなかった。独りきりの部屋で、元の夫は、茫然自失となっていた。

 バスルームを出た彼女は、ライティング・デスクの前で薄化粧をほどこしていた。山岡の部屋へ向かう途中に、彼の携帯がなったのだ。宿泊部門以外の緊急連絡が、ナイトマネージャーがら入ったのである。直接出向いて確認しなければならない。必ず戻ってくるからと、遥香を抱擁してタクシーに飛び乗った。24時間稼働するホテルの役職者が、夜中に呼び出されるのは珍しくはない。総支配人ともなれば、365日がその覚悟でいなければならなかった。
「やだあ。今頃なに…。」
勝のメールに気が付いたのだ。
「ええっ、どういう意味?」「総支配人が、怪しい?」
遥香は、可愛い印象のナイトウエアをはおっていた。もうすぐ山岡が戻ってくる。今夜が、2人の新たな記念日となるはずだった。今さら、何を言っているのだ。離婚は既に成立していた。山岡がオーベルジュを予約したと言った時、彼の車はまだ駐車場に停められていた。断る機会を与えてくれたのだ。だが、彼女はそうしなかった。今夜はずっとそばにいたい、はっきりそう自覚したのである。敬愛していた彼への想いは、異性としての愛だと気付いた。結婚の2文字が、その気持ちを抑え込んでいたのだ。彼は、開業準備室へ着任する前に入籍しようと言ってくれた。自分たちがオープンさせる理想のホテルで、最初のウエディングドレスを遥香に着てほしい。美しい夜景の光をあびながら、そう囁いてくれたのだ。もう彼しか見えない。山岡幸三と生きる未来以外は、何も考えられなくなっていた。そう、何も。何もだ。
「またあ?」「いい加減にしてよ。」「あ…。」
勝が見誤ったのは、遥香の“欲”だった。彼女がどれほど前向きに生きたいと望んでいるか。人生を価値あるものにしていきたいと考えているのか。主婦として、家事に専念することを求めていた勝に、彼女の望みが理解できるはずもなかった。そして、女として愛されたいと願う欲だった。遥香の女性としての尊厳を、乳房を失くした時から踏みにじってきたのだ。勝は自分が考える女としての百点満点を、無理やり押し付けようとしていた。遥香の美が欠けてしまったことが、まるで契約違反であるかのように思えて許せなかったのである。今の彼女をそのまま愛してくれる山岡とは真逆だった。彼への愛を育んだのは、勝自身だったのだ。
「石川さん…。」
忘れていた。否、山岡からは、全面的な支援を約束してもらったのだ。だが、わずかに10分。ピアサポーターとしての想いは、今夜の2人に似つかわしくない。暗い話は避けたいと、男と女の会話に胸ときめかせ、知らず知らずのうちに、石川和代の話を排除していたのだ。メールには、隆と十分に話し合ったこと、退院後は実家での療養生活を始めること、そして、必ずがんサバイバーとなって、もう一度ホテルのフロントに立ってみせると、そう彼女の気持ちが切々と綴られていたのである。最後は、いつか私もピアサポーターになりたい、遥香と出会えたことを心から誇りに思っていると、Vサインの顔文字で締めくくられていたのだ。瞳から大粒の涙があふれ出した。自分は一体、こんなところで何をしているのだ。大きく肩を震わせて、携帯を握り締めたまま声を上げて泣いた。自分のことしか考えてなかった。今、この瞬間も、石川和代は死の恐怖と闘っているのだ。軽んじた命の重さに愕然とした。
「そう…、か。」
「はい。ついさきほど。」
一足違いであった。急用ができたと、そうメッセージを残してチェックアウトしていた。
「部屋にワインを、何かつまみになる物も届けてくれないか。」
「かしこまりました。」
「今夜は、月でも眺めて飲むとするか。」
山岡はそう苦笑いしながら、彼女に何が起きたのか、心穏やかではなかった。海外プロジェクトへのオファーを、正式に辞退してきたのは、その翌日のことだった。以来、2人が逢引きすることばなかったのである。彼女は、乳房再建の手術を受けた。女性としての自信を取り戻し、乳がん患者の喪失感を埋める一助とするためだ。がんサバイバーが支える命の現場のボランティア。華麗なるピアサポーター、如月遥香の新たなドラマが始まろうとしていた。

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