暴漢|ぬくもり1-32

 急いで閉店作業を終えた店内で、今夜も2人きりとなった。これが最後の出勤となる彼女の姿態を、北村は、営業時間中から舐めるように見ていた。本当に、可愛さあまって憎さが百倍。引き止められなかった落胆の気持ちが、怒りへと変わり、ついには強い衝動となって、彼の心を邪な思いでメラメラと燃え上がらせたのだ。帰り支度のためにロッカーへ向かう智美を、暗い店内の一番奥にいた北村が、タイムカードに不備があったと、テーブルライトひとつが灯された客席から呼び付けたのである。月末に行う作業を、彼女の分だけ前倒ししていた。明日また、改めて呼び出されるよりはましかもしれない。自らにそう言い聞かせた。だが、彼の正面のベンチシートに不安そうな面持ちで腰を下ろした瞬間、まさかに北村が、問答無用で真横にさっとすべり込んできたのだ。やはり反対側は壁面だった。
「辞める前に、な、いいだろ?」「居酒屋じゃ、けっこう悦んでたじゃないか。」
「やっ、やめて下さい!帰ります!」「帰らせて下さい!」
いきなり上半身に抱きついてきたのだ。それどころか。必死に彼の手を振り払おうとする智美の体を、力尽くで、全体重をかけてベンチシートの上へ押し倒してしまったのである。
「いや!」「やめて、下さい!いやっ!」「やめてっ!いやーっ!」
鼻息荒く、目を血走らせ、猛然とのしかかってきた。
「もったいぶるな!へへっ、ほんとはこうしてほしかったんだろ!」「ええい、暴れるな!」
腕力にまさる北村に、華奢な彼女が抗えるはずもない。瞬く間にブラウスのボタンが引きちぎられ、肌蹴た制服の胸元から、キメ細かな白い肌が露わとなった。身をよじるたびにスカートがめくれて、むき出しとなる太腿が、暴漢と化した彼の欲望を強烈に掻き立てたのだ。
「いやあーっ!」「いやあああああーっ!」
計画通り一気呵成に、人の皮を被ったケダモノが、孤独な魂に容赦なく襲いかかっていった。

 外気は、九月の半ばとは思えないほど冷え込んでいた。店の閉店時間は定かではない。それでも雄一は、独りで智美のパート先へと向かったのである。トボトボと悪い片足を引きずりながら、杖を頼りに、月夜の歩道を精一杯に早足で歩いていた。おとといのことを謝りたかった。深く傷付いているのではないか。心配で心配でたまらなかったのだ。孝子は緊急入院を余儀なくされた。拘束着で四肢の自由を奪われ、専用の個室で、半ば監禁状態におかれてしまったのだ。見るにたえなかった。それでも、もはや彼独りの手には負えなくなっていたのである。心を鬼にして、最愛の妻を置き去りにするしかなかった。孝子に噛み付かれた傷よりも、己が犯した非道な罪の大きさへの、心の痛みにさいなまれていた。
『あっ、おじさん、こんばんは。』
鍵を開けたのは息子だつた。
『おお、久しぶり。』『また背が伸びたな。もう中学生か。早いなあ。』
『おふくろ、いないよ。』『今、パート行ってる。』
最初に訪ねたのは、母子の暮らすアパートだったのだ。一馬のことは、生まれた時から可愛がってきた。一馬にとっても、実の祖父のように感じられていた。
『当分帰って来ないよ。上がる?』
駅からかなりの距離を歩いていた。足の悪い彼には、相当の負担だった。
『そうだな。そうさせてもらおうか。』『これ、一馬の好きな大福。』
『おっ、美味そう!アンコたっぷりのだ!』『どうしたの、その手?…顔とかも大丈夫?』
手に巻かれた包帯と、首や顎に貼られた絆創膏のことだった。雄一の前では、幼い頃と何も変わらない、心根のやさしい少年のままだったのである。
『ちょっとドジしてな。』『なに、大したケガじゃない。』
台所のテーブルで息子の話を聞くうちに、自然と話題の中心が彼の知らない智美に移った。急に顔色を曇らせる一馬を、雄一が見逃さなかったのだ。亀の甲より年の劫。老いたりと言えども、元をただせば少年だった。しだいに、思春期の息子の胸の内を、彼なりに察して、母に対する複雑な想いを丁寧に聴き出していったのである。同時に、今夜の心配事が増えてしまった。智美が、その北村と言う店長から嫌がらせを受けているのではないか。こうしてはいられない。今日で辞めると聞かされたパート先へ、今すぐ向かわずにはいられなくなっていた。

 すぐには、一馬の待つアパートへ帰れなかった。あまりのショックで、全身の震えが止まらないのだ。智美は、脇道に車を停めて、真っ暗な闇の中で怯えていた。もしもあの時、異変に気付いた雄一が飛び込んできてくれてなければ、今ごろ自分は、北村の思うがままにされていたのだ。助かった安堵の気持ちよりも、底知れぬ恐怖から逃れられずに怯えていた。
「本当に。」「警察に行かなくていいのかい。」
智美は小さくうなずいた。
「あんな卑劣な奴…。」
絶対に許せない。きちんと法の裁きを受けさせるべきだ。そう言いかけた言葉を、彼は涙目で呑み込んだ。これ以上、もう二度と、あの男とは関わりを持ちたくないはずだった。
「私が、もっと早くに気付いていれば…。」「それがほんとに悔しいよ。」
自分の膝を、自らを責めるように、握りコブシで何度も叩いた。雄一は、ウインドウの外に顔を向け、強く唇を噛んでいた。どんなに恐ろしかっただろう。大切な、実の娘のような智美を傷付けられて、彼の胸も、今にも張り避けてしまいそうだったのである。
「私が、私がいけないんです。」「もっと早く辞めてれば…。」
「バカなこと言っちゃいかん!」「智ちゃんのせいなんかであるはずがない!」
初めてだった。自分のために語気を強める雄一を初めて見たのだ。
「智ちゃん!?」
「お願いです。」「5分だけ。」
体を助手席に乗り出して、彼の胸に頬を寄せてきた。
「5分だけ…、このままでいさせて下さい。」「お願い。」
「智ちゃん…。」
その頬を涙が伝った。
「あったかーい。」
ぬくもりが伝わってくる。真に互いを思いやる温かい心のぬくもりだった。雄一は、言葉もなく、彼女の背をさすっていた。まるでわが子のように、傷付いた魂をいつくしんだのだ。
「すごくあったかーい。」
「そうかい…。」「智ちゃんもだよ。」
彼の瞳からも、涙が滝のようにあふれ出した。孤独な2つの魂が、今にも凍り付いてしまいそうな互いの心を、ゆっくりと、時を忘れてどこまでも温め続けたのである。この日の杉山雄一のぬくもりを、本庄智美は生涯忘れることはなかった。
「あったかーい。」

 良く晴れた日の午後、会場は微妙な笑顔でいっぱいだった。次々と分かりやすいマジックを披露するステージの脇で、やさしい笑みを浮かべた智美がマイクを片手に盛り上げていた。
「すごーい!帽子からハトが出ちゃいましたね~!」「皆さ~ん、杉山さんに拍手―っ!」
今日のマジックだけは、やはりボランティアとは呼べない。雄一は、心の中でそう思った。麗らかな日差しを背に、とっておきの技の数々をぼうっと眺めている認知症患者の中に、もう自分が誰だか分からない孝子が、車椅子に座って並んでいるからだ。
「さあ!いよいよクライマックスです!」「何が始まるのかなあ!楽しみ~!」
人生の終着駅で最後の改札を出る時、駅の係員が彼に問いかける。お忘れ物はありませんか。その時、もしかしたら雄一は、得意げにこう答えるのかもしれない。
『ああ、大丈夫。』『ちゃんとフトコロに、大事なぬくもりがしまってあるから。』と。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/443692159
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック