あいつ|ぬくもり2-2

 遠く離れた異国の地で、日々、どれだけ多くの人たちが、いとも簡単に尊い命を奪われていることか。何百、何千、時には何万にも及ぶ単位の罪なき人々が、今もどこかで、戦争や政変の新たな犠牲者となっているのだ。だが、マスコミを賑わす著名人のスキャンダルほどには、誰もさほどの興味も関心も示さない。“知っている”程度で十分だからだ。あえて身近に感じる必要はなかった。大きな事件や悲惨な事故の被害者、難病や怪我による重度の障害者、天変地異の避難者に至るまで同様だった。自らに火の粉が降りかからぬ限りは、皆、あふれる情報のひとつとして、社会人の常識の一部として、見出しやあらましを知っている程度で十分だったのだ。だから、受け入れられない。どん底であえぐ人たちに一度も思いを馳せたことのない者が、ある日突然、お前も“同類”になったのだと言われても、現実として受け入れられなかった。同類の厳しい現実や深い悲しみを、遠い国の出来事と同様に、自分にだけは起こらない非現実的な話と捉えて、一応は知っていただけだからである。
「しばらく…独りにしてくれないか。」
一時は、意識不明の重体だった。彼は、真上の天井をじっと見詰めていた。
「はい…。」
大手のゼネコンで、次期社長の座を虎視眈々と狙う、剛腕と呼ばれる常務の愛娘だった。6つ年下の真帆(マホ)とは、先月の大安吉日に挙式をあげて、政財界からも多くの賓客を招いた盛大な披露宴で、これ以上はない祝福を受けて華々しく結婚したばかりだったのである。将来を嘱望されていた一級建築士の松山俊哉(マツヤマ トシヤ)は、まだ34歳の若さであった。
『このまま一生、寝たきりとなる可能性もあります。』
今、覚えている主治医の言葉はそれだけだった。新米の作業員が締め損ねた、たった1本のボルトが、彼の手にしていた“約束された未来”を根こそぎ奪い去ろうとしていた。自らが設計した前衛的な建物の建築現場で、詳細な図面を広げて、細かな確認と指示を行っていたのだ。いきなり、俊哉の乗る足場だけが崩れ落ちた。真っ逆さまに、8mの高さから転落してしまったのである。気付いた時には、この病院の集中治療室に横たわっていた。体は、ピクリとも動かせない。あたかも植物人間の状態なのだ。まるで魂を抜かれたデク人形のように、ただ黙々と、真上の天井を見上げていた。

 第一印象は最低だった。第二印象は、最悪だったのだ。言葉を交わすたびに、どんどん不快な気分にさせられる。ひと回り歳が上とも思えない。軽はずみなセリフばかりを連発させていた。上司としても、男性ちしても完璧だった山岡とは月とスッポン、太陽とうじ虫ほどに違っている。妙な関西なまりも耳につく。否、何にもまして、彼女の感情を逆なでするのが、新たに着任した総支配人の名字だったのだ。さすがの遥香も、相当にイラ付いていた。
「ほんまや。」「こない別嬪さん、関西には一人もおらへん。」
「あの。」「修繕費の概算についてですが…。」
遥香は、目を合わそうともしない。
「来年度は、客室のクロスの張替を認めて頂きたいと考えています。」
「今、独身やてな。えらい噂やで。」「皆、目の毒気の毒やな、ほんまに。」
白石宗一郎。偶然にしても腹立たしい。総支配人の名前を見るたび聞くたびに、別れる前の自分と勝との、冷めた結婚生活の記憶が蘇る。それが上乗せされて、さらに許せなかった。
「びっくりするほど脚も綺麗や。」「すらっとこう長うて、色白で、なんて言うんか…。」
「いい加減にして下さい!」「セクハラで訴えますよ!」
透き通るような瞳の、切れ長の目でキッと彼を睨み上げたのだ。
「あははっ、冗談やがな、冗談!」「そやけど、怒った顔もまたええで!」
各セクションから出された売上と経費の予測を、ホテル全体の次年度予算として組み上げる時期だった。無論のこと、宿泊部門に関する数字は遥香の担当なのだ。昨年までは、会議室で関連部門とも合同で行われていた。今回から急に、総支配人室に個別で呼び出されるようになったのだ。やや深めのソファに腰掛けると、膝上丈の制服のスカートから、彼女の美脚がかなりの部分まで露出する。それが、目の前に陣取った宗一郎の視線の餌食にされてしまうのだ。本当の目的はこれではないのか。そう疑いたくなるほど、彼の目付きが卑猥なものに見えていた。今年の予算折衝は、まだ始まったばかりなのだ。これから先の打ち合わせが思いやられる。不快な気持ちは募るばかりであった。
「何なの、あいつ!?」
「あ、あいつって…。」「相手は総支配人ですから。言葉に気を付けられたほうが…。」
「あいつで十分よ!」「ああもう、本気で吐きそう!」
「ははっ、またまた過激な。」「穏便に穏便に、ね、如月支配人。穏便にいきましょう。」
ホテルの5階にある広い管理部門のオフィスで、カンカンとなった遥香を、総務のマネージャーを務める佐川徹がなだめているのだ。ミーティングルームから漏れ聞こえてくるヒステリックな彼女の声に、大勢の事務スタッフもクスクスと笑わずにはいられなかった。
「どうしてあんなのがうちへ来ちゃったの!?」
「あんなの!?」
「いつまでいるワケ!?」「もしかして偽物なんじゃないの、あいつ!」
「いえ、ちゃんとご本人ですから。ははっ…来たばっかりですし。」
まるで収まらない。温厚な佐川の前で、皆にも聞こえよがしにまくし立てていった。
「あのヘタクソな関西弁は何!?売れない漫才師!?」「耳からも吐きそう!」
「はははっ、落ち着いて落ち着いて。」「決して悪いかたでは…。」
佐川は過去にも、他の店舗で、総支配人となったばかりの白石の下で働いていたのだ。
「無理!絶対に無理!まったく無理!」「あんなのが総支配人なんてあり得ない!」
管理に在籍している女性スタッフの多くも、如月遥香に対しては、少なからず敬愛と憧れの念をいだいている。経理部門で現金の出納係を任されている河野咲(コウノ サキ)も、皆と同じく、自分も遥香のようになりたいと語っていた。先輩に当たる咲を、気付かれないよう時々チラチラと眺めているのが、今年の入社で、総務部門に配属された南田良介(ミナミダ リョウスケ)だったのである。音もなく忍び寄る影が、この時すでに遥香を巻き込もうとしていた。
「あいつだけは永久に無理!」「無理ーっ!」


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