白いサクラ|ぬくもり2-3

 楽しいバス旅行を終えたかるがもの教室は、いつも通りの、和気あいあいとした日常を取り戻していた。“かるがも”と名付けられたのは、視覚障害者らが列を作って、前の人の肩や肘に捕まりながら歩く姿と、移動するかるがもの親子の可愛らしい行列が似ていたことに由来する。光陰矢の如し。船出から、早19年もの時が流れていた。過ぎてしまえば、さまざまに乗り越えてきた困難も、みな懐かしい思い出や笑い話に変わっている。何とかここまでこれたのは、ボランティアとして裏方に徹するサポーターたちの精進と、支えられる側の障害者の、数えきれない無邪気な笑顔があったればこそなのだ。かるがものことくに、あとに続くメンバーが絶えないようにとの願いも込められていた。
「ねえ、ヒロさんて、今日も職安なの?」
「古いのう。今はハローワークと申すのじゃ。」
「またあの女と一緒ってこと?」「何て名だっけ。オトコズキとかなんとか…。」
「ミズキじゃ!」「わざと間違えるでない!」
障害者担当の杉田真理子の勧めもあって、就労継続支援A型を利用し、週4日の簡単な仕事は見付かっていた。しかし、最低賃金の時間給では、借金の返済にいくらもあてられない。宏之が求めるのは、あくまで正社員の職だった。今もまだ、足しげくハローワークに通っている。本当に葵が心配しているのは、彼の就職が決まったあとのことだった。かるがもの教室に、ほとんど顔を出さなくなるのではないか。平日が主体のパソコン教室だけに、そのことがずっと頭から離れずにいた。心の奥底には、秘めたる淡い想いがあるのだ。
「はあ~あ。」「最近、ぜんぜん食欲がないの。」
「だははっ、その割にはよう肥えとる。」
「ほとんど夜も眠れないし。」「はあ~あ。やつれて見えるでしょ?」
「だははっ、いつも通りの血色じゃ。鼻先もテカッっておるわ。」
「はあ~あ。ヒロさんみたいな人でも、やっぱり若い子がいいのねえ。」
「だはははっ!葵にもハズバンドがおるではないか!?」「贅沢を申すな、だははっ!」
“husband”「ヘタねえ、発音。」「はあ~あ。」
「だ…。」「だ…は…。」
実は英語の苦手な由莉だった。
「チャンラー!」「今日も元気な八重ちゃん登場だぞーっ!チャンラー!チャンラー!」
午後一番。威勢よく飛び込んできたのは、かるがもの肝っ玉母さん、正村八重子であった。
「おやっ、今日も爆笑パラリンガールズが仲良く並んでるねー!」
「はーい!」「外見命の葵ちゃんでーす!」
「ほーい!」「デスイズアペンどぇーす!」
「チャンラー!まだまだ笑いの修行が足らんなあ!」「八重ちゃんから学べよ!な!な!」
「はーい!八重ちゃんは、かるがものドン・ガバチョでーす!」
「ドンドンアンどぇーす!」
「ドンドンアンか!?」「ドンドンアンとかけて、かるがもの勉強会と解く。」「な!な!」
「いよっ、そのココロは!?」
八重子の十八番に、葵が声をかけたのだ。
「どちらも、メンが決め手です。」「チャンラー!」
全員の頭に、大きな“はてなマーク”が浮かんでいた。ドヤ顔だった八重子も、すぐに気付いた。
「かっ、かるがものメンは、メンバーのことなんだぞー。な!な!」
「あっ、ああ~、なるほどー!」「ちょっと分かりにくいけど、おもしろ~い!」
「だははっ!メンバーのメンとな!?さすがじゃのう!で、バーはどこへ行ったのじゃ!?」
実は空気の読めない由莉だった。
「チャ、チャンラー!」「八重ちゃんは、細かいことは気にしないんだぞー!な!な!」
しかし、ピエロになりきる八重子の努力は、今日もたちまち水泡に帰した。
「こんにちは…。」
宇宙にぽっかり口をあくブラックホールか。それとも、未知なる惑星からやってきた暗黒の使者なのか。いやいや、ダークサイドのブラック・インベーダーかもしれない。あれだけ盛り上げた教室のテンションが、一気に下がって真っ暗となった。彼女の発する絶対零度のマイナスオーラは、まさに全ての光と熱を消滅させる黒い太陽、究極のブラック・サンだった。
「今日も…、また…、お世話になります。」
白原小紅螺(シラハラ サクラ)。自宅までの送迎を八重子が自ら買って出た、まだ20代半ばの彼女こそ、正村圭一郎をもってしても、その受け入れをためらわせた難病の持ち主だったのである。家族と一緒に、一年近くもの時をかけて説得した。だが、今もまだ、魂の抜け殻同然だったのだ。生きる気力が失せていた。自らの明日に希望を見出せずにいるのだ。かるがも始まって以来の、どうしようもなく暗い新メンバーだったのだ。笑いを忘れた可憐な白いサクラに、八重子は是が非でも笑顔を取り戻してやりたいと考えていた。

 悠々たる流れの一級河川を眼下に臨む超高層タワーマンションのペントハウスが、このバベルの塔を建設した大手ゼネコンの野心家が暮らす松山真帆の実家であった。異例の速さで常務にまで上り詰め、今や絶大な権勢を社の内外に誇示している。向かうところ敵なし。現社長を追い落とす策も、着々と思惑通りに進めていた。彼の辞書には、挫折と敗北の文字がなかった。失意や絶望といった言葉さえ、能無しどもの大好きな、自らを憐れむためのザレゴトにしか聞こえない。どん底で苦しむ者たちのことなど、爪の先ほども眼中になかった。いかにも悪役ヅラの父、その田所万作(タドコロ マンサク)が、妻の千穂(チホ)と共に、落ち着かない様子で彼女の帰りを待ち構えていたのだ。
「やっぱりか。」
彼は、一応はガックリと肩を落として見せた。診断は、頸椎損傷C5番。一生寝たきりになるかもしれない。真帆の口から、初めてそう聞かされた。夫婦で覚悟はしていたが、現実となれば千穂も動揺は隠せない。不安げに唇を噛む愛娘の姿が痛々しかった。
「あなた、他の病院もいくつか当たってみて。」「真帆さんひとりじゃとても無理だわ。」
「もちろんそうするさ。」「だが。」
後妻である彼女の言葉にそう答えながら、蒼ざめている愛娘の顔をもう一度見たのだ。
「それほど大きな期待はできまい。」
剛腕としてのし上がってきたのは、いざ事に当たる時、機を見るに敏であるからだ。だが、同時にそれは、“手の引き際”を心得ていることでもあった。万作にとっての松山俊哉は、すでに使い道のないガラクタに成り下がっていた。将来の見込めないガラクタに、たったひとりの大事な娘を嫁がせておくほど、彼の心は広くはなかった。もともと彼自身が仲を取り持って、やや強引に結婚までのお膳立てをしてきたのである。どうせ別れさせるなら一日でも早いほうが良い。植物人間の世話をさせるために、手塩にかけて育ててきたつもりもなかった。それでも、さすがに今日は早過ぎる。真帆の気持ちを思いやっていた。万作は、あらゆるテヅルを手繰って捜し出すつもりだった。面倒な離婚が専門の、頼りにできる敏腕弁護士をだ。
「でも、もしかしたらってことも…。」
「まあいい。」「金さえ出せば、どんな偉い医者にだって診てもらえるさ。」
真帆は、うなだれたまま茫然としていた。五里霧中。何を、どうすれば良いのか。どう考えれば良いのか。一寸先が闇のように思えていた。夫への慰めの言葉すらも見付からない。彼女もまた、“約束された未来”を、その手から奪い去られようとしていたのである。
「あとのことは、家族でゆっくり考えようじゃないか。」
「はい…、お父様。」

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