自販機|ぬくもり2-4

 外界から閉ざされた医療の世界は、地域を代表する国立大学などの“医局”を頂上に、広くその裾野が中小の病院にまで形作られている。厳然たる支配体制と、人材供給のスキームが構築されていて、その風下に立つことでしか、安定した病院運営が行えなくなっているのだ。医局に籍を置く医師たちも、今日と明日とを保証され、恭順を心がけて、それなりの及第点さえ得ていれば、生涯に渡って食いっぱぐれる怖れはなかった。女性の12人に1人が、乳がん患者となる時代。乳腺外科の専門医ともなれば、今や多くの民間病院が、金のわらじを履いて捜すほど引っ張りダコなのである。がんの治療が収益の大きな柱となる総合病院にとっては、まさに彼らこそが巨額な診療報酬の一番の稼ぎ頭であった。
「ひどい…。」
眉をひそめた遥香が、あえてそう口にした。
「吉本先生ですか?」
「はい。」
そう答えながら、大田安佳里(オオタ アカリ)は、胸元の衣服を整えていった。
「手術は、3か月前なんですね?」
「はい。」
「皮膚科には?」
「行ってません。」「あの、先生が、その…。」
「受診しなくていい。そう言われたのね?」
「はい。そうです。」
「すぐに受診したほうがいいわ。」「吉本先生に遠慮してる場合ではないと思います。」
「でも…。」
この総合病院の乳がん患者と面談するのは、遥香にとってもかなりの心の負担となっている。これで3例目だからだ。見るも無残に、創跡(キズアト)が醜い糜爛(ビラン)となっていた。ジクジクと膿んだ状態で放置されているため、このままでは感染症を引き起こす可能性が十分にあるのだ。明らかに、執刀医の技能と対処の問題だった。これでは、相談を受けるはずの乳房再建の話どころではない。個人的な判断としても、見過ごすわけにはいかなかった。
「先生に直接話しにくいなら、例えばがん相談支援センターとかに…。」
「お願いしました。」「何度もお願いましたけど。」「伝えておくって言うだけで…。」
遥香の言葉が、虚しく空を切っていた。同じ病院内で、主にベテランの看護師が専従するがん相談支援センターの相談員が、上位の立場にある医者に、正論を振りかざして何かを指摘できるはずもない。だからこそ、わざわざピアサポーターの自分に見せたのだ。そう予測していながら、勧めてみるしかなかった。医療者でもない遥香には、さらに手の届かない遠い存在なのである。患者も、そして自分も、憐れで無力に感じられていた。
「そう…なの。」
相手は無類の酒好き、女好きだった。どこかの店の若い子に入れあげて、毎夜のごとくに通い詰めているらしい。あろうことか、手術日の未明にまで、泥酔している姿を繰り返し目撃されていた。オペ中に看護師たちが唖然として、信じ難い場面に自分の目を疑ったと言う噂話も、まことしやかにピアサポーターに聞こえてきているのだ。
「分かりました。」「私からも、相談員の皆さんにもう一度お願いしてみます。」
遥香自身も、院内で顔を合わせるたび、食事に行こうと執拗に誘われている。強い憤りを覚えても、他に打つ手があるわけではない。40代後半の乳腺外科医、吉本忠則(ヨシモト タダノリ)もまた、院長以下の所属する医局から、期限付きで派遣されてきた“大事な預かり物”なのだ。迂闊に事を大きくすれば、大学側からどんな制裁を受けるか分からない。裁判になるほどの医療ミスでもなければ、病院の誰かに訴えても無駄であった。遥香もそれを良く知っていた。
「とにかく。」「私の信頼している皮膚科クリニックの先生に診てもらいましょう。」
安佳里は、不安げな表情を浮かべるだけだった。

 客室フロアごとのベンダールームに設置された自販機は、アルコールや清涼飲料水などの種類を合わせればそれなりの数となる。以前は、商品の補充と売上金の回収を総務の担当者だけで行っていたのだが、不正な現金の操作が発覚して、現在は、経理部門の者との共同作業に改められていた。それが、総務に配属された南田良介にとっての幸運であった。今年度の経理の担当者が、あの河野咲だったのだ。3か月の新人研修期間中、管理のオフィスを見学に訪れた時から気になっていた。6歳年上とは思えない。愛くるしい笑顔と控えめな言動が、強い親近感と好奇心をいだかせるのだ。もちろん、そんなそぶりは微塵も見せてはいない。彼女の側にも、彼を意識している様子はなかった。
「売れたのが22本ね。」「2コラム合わせて45本、合計で108本、と。」「完了。」
月に2回。月末には、同時に棚卸も実施している。半ばに補充した数と合算していた。
「じゃ、次、抜いた現金数えますね。」
「ええ、お願い。」
二人きりで、咲のそばにいられるだけで十分だった。
「今回多いですね。」
「付帯の売上も、ギリギリで達成できそうだわ。」
「やりましたね。」
「ね。」
思い切って告白したら、今度も必ず、木っ端微塵となるに違いない。“私、もうすぐ結婚するの。ごめんねえ。”そんな悪夢のセリフが、自分の場合はきっちり用意されている。22年間、片想いだけの人生だった。誰かに告白するたび、もう二度と告白しないと誓ってきたのだ。
「ねえ、南田君。」
台車の上に、在庫の段ボールの箱を積み終えた時だった。
「あ、はい?」
咲が、記入した用紙を確認しながら、ふと彼に呟いたのである。
「今度のお休み、デートしようか。」

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