小鳥|ぬくもり2-5

 何のために生まれてきたのだろう。何のために生きていくのだろう。自分がこの世に存在している意味が、いつの頃からか分からなくなっていた。ただ、起きて、食べて、空虚な一日をやり過ごして、時がきたら眠るだけ。何かを作り上げるわけでも、誰かの役に立つわけでもなかった。八重子の車を降りて、家の戸を開いた途端、ずっと引きこもってきた薄暗い空間が待っている。白原小紅螺は、誰もいない玄関にそっと腰を下ろした。彼女にとっては、わずかに25cmの段差が断崖絶壁なのである。中学を卒業するまでは、自分の体に違和感を覚えたことはなかった。おかしいと思い始めた高校時代でさえも、運動不足のせいではないかと、内向きに判断して、医師に答えを求めることはなかったのだ。はっきりと自覚したあとは、いくつもの病院を母と回った。誤診による無駄な治療も、長期に及んで受け続けたのだ。
 遠位型ミオパチー。心臓から遠い部分の筋肉で萎縮が始まり、しだいに全身が動かせなくなっていく。彼女の場合は“三好型”と呼ばれ、筋ジストロフィーと名付けられた難病だった。どこまで動かせなくなってしまうのか。いつまで家族に頼らず普通の生活ができるのか。不確かで終わりのない闘いは、長い人生で始まったばかりなのだ。だが皮肉にも、真の病名にたどり着けたと言うことだけが、不思議な安堵感を与え、暗闇の中をさまよう心をギリギリのところで支えてくれていた。ひと呼吸あとに靴を脱ぎ、ゆっくりと体をひねって四つん這いとなった。玄関に一番近い場所が寝室だった。彼女はそのままの体勢で這って行き、自室のベッドによじ登って、消耗した体をゴロリと横たえたのである。明日は、今日よりもっと動かせなくなっているのかもしれない。夢も希望も他人のものだった。寒い冬に力をたくわえ、待ちわびた春に咲き誇る“サクラ”の名も、抜け殻の今の彼女には、自分以外の別人の名に聞こえていた。どうして自分なのだろう。なぜ他の誰かではないのだろう。秋の空を自由に飛び回る小鳥たちに、窓越しに見詰める小紅螺の瞳が、そう悲し気に問い掛けているようだった。

 一生、寝たきりか車椅子の生活になる。ドキュメンタリー番組やドラマの中で見聞きした、同情をさそう可哀想な人々の話であった。俊哉は、まるで理解していない。自分がそうなるかもしれないと、つゆほども診断結果を受け入れてはいなかったのだ。頑張ってリハビリすれば、すぐまた元通り歩けるようになる。一日も早く職場に戻って、事故の起きた物件の竣工式にも出席するのだ。鵜の目鷹の目で、ライバルたちが自分のポストを狙っている。空白の時間は、隙を窺う彼らの思うツボだった。新社長就任目前の田所常務の期待にも応えて、次世代を担う設計部門の雄とならなければならない。自分を慕う多くの部下たちも、松山俊哉の復帰を今や遅しと待ち望んでいるはずだった。こんなところで、呑気に寝ころんでいるヒマなどないのだ。狭い介護用ベッドでの時の流れが、あまりにもどかしかしく感じられていた。
「俺のリハビリは、いつから始まる?」
しびれた指を動かして、シーツを摘まめるか試していた。
「こんな時に訊きなさんな。」「第一、治療のことは看護師に質問するもんだ。」
見た目には50代であろうか。家政婦の里中妙子は、彼の排便を促していた。
「看護師の説明がピンとこない。」「車椅子の扱いがどうとか、話をはぐらかされる。」
はくらかされているわけではない。彼自身が聴く耳を持っていないのだ。妙子はそう思った。大部屋に移された俊哉と、他に2人の頸椎損傷患者を彼女が看ている。この世界では熟練の、数え切れない悲劇と嘆きを見てきたツワモノだった。彼に限らず、皆一様に、負傷した直後は悲劇と嘆きの埒外にいる。自らの悲運とは、客観的に向き合おうとはしないのだ。当然と言えば当然。向き合うこと自体が、今までの人生の崩壊を意味していた。視力を奪われることが死の次につらい出来事なら、突然に寝たきりとなることは、死に匹敵するむごさであると言えるかもしれない。本当は、ここが大事な分かれ目なのだ。せめても車椅子の生活ができれば、未来は大きく変わってくる。妙子は、その明暗の分かれ目に何度も何度も立ち会ってきた。
「あんた、設計士やってたんだってね。」「大きな会社の。」
潜在的な意識であろうか。過去形で言われたことがカンにさわった。だが、指摘するほどの言い間違いではなかった。短い付き合いの、たかが家政婦の言葉ではないか。いちいちこの手の人間を相手にするほど、自分は低俗な階層の人間ではない。そう考えて聞き流すことにした。しかし、同時に気にあることが頭に浮かんでしまったのだ。数日来、不可解な思いにとらわれていた。個室に移って以降も、見舞いに訪れる者が一人もなかったのである。命に別状はないと知って、とりあえず田舎に戻った両親以外、会社関係の連中が誰も顔を出さなかった。こぞって新居にまで押しかけてきた部下たちも、全く姿を見せてはくれなかった。
「あっ、奥さん、こんちは。」
「里中さん、こんにちは。お世話になります。」
「午後から入浴だから、着替え用意しといて下さいね。」
「はい。」「よろしくお願いします。」
意識不明でいた時に、ご夫婦で駆け付けてきてくれていたらしい。だが、その後は常務すらも音沙汰がなしだった。俊哉自身の設計で内定していた大きな公共事業の入札日が迫っている。もしかしたら思わぬトラブルが発生していて、自分のことどころではないのかもしれない。彼は、そう思いたかった。否、この時はまだ、本気でそう信じ込んでいたのである。窓の外を自由に飛び回る小鳥たちの姿も、この時の彼にはまだ、見慣れた日常の風景に過ぎなかった。

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