罠|ぬくもり2-6

 UGとは、Undesirable Guestのことだった。いわゆる業界用語で、ホテル関係者の間では、“招かれざる客”と訳されている。ちょっとしたホテル側のミスや対応のまずさに付け込んで、大声で威嚇するなど、営業妨害に等しい行為を意図的に行う不良客の総称だった。法律の知識にもたけていて、直接的な表現で金品の要求を自ら口にすることはない。多くは、人員の手薄な深夜に騒ぎを起こして、強圧的に呼び出した責任者を、先の見えないトンネルに追い込んで、延々と一晩中でも責め立てる。“これで解放されるなら…。”そう判断させるのだ。だが、軽々に譲歩や妥協の案を示せば、さらに足元を見られて、ここぞとばかりにハードルを上げて貪欲に牙を剥いてくる。対抗策はただ一つ。少ない対価にありつくまでに、いかに膨大な労力をかけさせるかだ。裏稼業を生業(ナリワイ)とする者たちは、きちんとその計算ができている。しぼり取れる中身が努力に見合わないとなれば、あっさりと退散して、新たにカモとなる弱腰なホテルを見付け出すほうが効率が良い。つまりは、ホテル側が長期戦と消耗戦を覚悟して、限りなく勝利に近い引き分けに持ち込むことだった。
「失礼します。」
自動で部屋のドアが閉じてしまわないよう、遥香は、半開きの位置でストッパーを床との隙間に挿し込んだ。夕方から大声で怒鳴り出したのが、UGかもしれないと警戒していた男4人の、横柄で威圧的なグループだったからである。前回は女と2人連れだった。今回は、他にトリプルルームが1つ。宿泊責任者の彼女が謝罪と状況報告に訪れたのは、リーダー格の男がステイするロイヤルスイートであった。入口で顔を上げた瞬間、射刺すような男の視線が出迎えた。
「遅くなりました。支配人の如月と申します。」「このたびは本当に…。」
「おやっさんはあっちや。」
もう一人の屈強そうな大男が、奥へと続く扉を開いていた。
「ふん、やっと支配人さんのお出ましかいな。」
ベッドルームの新海五郎(シンカイ ゴロウ)は、これ見よがしのフンドシ姿だった。でっぷりと突き出た腹まで、真っ青な入れ墨で埋め尽くされている。遥香は足の震えを覚えた。やはり、こんな謝罪程度で話の収まるような相手ではない。そう直観したのだ。あぐらをかいて見上げる中年男の鋭い眼光は本物だった。瞬く間に喉がカラカラに乾いて、圧倒的な恐怖で、彼女の両足がすくんでいったのである。毅然とした態度を取るなど、この状況ではほど遠かった。
「わいの歯ブラシ、見付かったんかい?」
「いっ、今、手分けして全力で探しています。も、もう暫くお時間を下さい。」
歯科医に推奨された特注品だった。それがバスルームに置かれていたことは、前日にルームメイクを担当したメイドか記憶していたのだ。運悪く、信頼していた彼女が急な病欠で、要注意部屋だと指示を受けていた清掃責任者も公休だった。事情を知らない者たちがメイドの分担を組み直したために、まだ経験の浅いメイドがたまたまこの部屋の清掃を受け持ったのだ。その者には、特殊な歯ブラシの記憶が欠落していた。
「生ゴミあさっとんちゃうやろな?」
ホテルの場合、全ての客室のゴミが、24時間以上廃棄されずに留保されている。フロアごと、あるいはメイドごとに区分けされ、いざと言う時に備えて保管しているのだ。だが、まだ見付からない。手薄なフロントスタッフを裂いて、それらを逐一確認させていた。
「ちっ、違います。回収した物は、きちんと分別されていますので…。」
「なに能書きぬかしとんじゃ、われっ!」
真後ろにいた大男が、凄みのある怒声で威嚇したのだ。足のすくんだ遥香は、気圧されるようにして前へ出た。ベッドルームの中へ足を踏み入れてしまったのである。まさかに、ストッパーで留めていた入口の閉まる音がした。ガチャリとカンヌキをロックして、ドアチェーンまでかけたのだ。これで外部からの突入は困難となった。さらには、背後の扉も閉じられ、防音が自慢のホテルの客室で、危険な薄笑いに変わった男4人に、無防備な身を完全に囲まれてしまったのである。淫靡な熱気が渦を巻き出していた。
「知ってるか。」「魚心あれば水心いう言葉。」
美しい顔が蒼白となった。
「!」
いきなり強い照明が焚かれたのだ。五郎の後にいた若い男が、撮影用のカメラを自分に向けて構えている。後退りする遥香の背は、威嚇した大男の分厚い胸板に突き当たった。扉を閉めていた男も、ガムテープを引き伸ばす音をキイキイと立てていた。逃げ場はどこにもない。彼女の運命は既に決していた。
「近寄らないで!」
とっさに壁を背にしたのだ。
「へへへっ、諦めえ。」
男たちはジリジリと間合いを詰めてきた。
「怪我するだけ損や。おとなしせい。」
「おやっさんに、きっちりホテルの誠意見せたれや。」
昨日のメイドに確認させた歯ブラシは、彼らの仕込みであった。どれだけ他を探しても絶対見付かるはずもない。現物は、この部屋にあるバッグの中だった。前回、宿泊支配人の如月遥香に目を奪われた五郎が、邪な思いをいだいて、若いし連れで乗り込んで来たのだ。無論、高い部屋代を払うつもりもなかった。そのためのビデオ撮影でもあるのだ。悪において百戦錬磨の彼らには、素人を罠にかけるくらいは造作もなかった。この先も金づるに使えそうな極上の獲物を、たかだた歯ブラシ1本で己が手に入れられる手練れたUGだったのである。

 レセプション前のロビーは、最後に到着したインバウンド・ツアーの外国人客でごった返していた。今夜のフロントは、歯ブラシの捜索にも人手を取られてテンヤワンヤなのだ。日勤者が居残って、立て続けの団体客のチェックインを何とかこなしていた。遥香がロイヤルスイートへ向かった時間すら記憶が定かではない。少なくとも1時間以上は経過している。皆、気が気ではなかった。ようやく手の空いたフロントクラーク2人が、いざともなれば突入する覚悟で、フロアマスターのカーキードを手に客室階へ上がったのだ。
「どうだった?」
「支配人は?」
マスターキーを保管場所に戻しながら、彼らは不可解そうに首を傾けて見せた。客室のドアは閉じられていた。物音ひとつ聴こえなかったのだ。ノックをしても反応がなかった。遥香が中にいるか分からない状態で、闇雲に突入するわけにもいかない。司令塔を失くしたフロントは、顔を見合わせるばかりであった。本来であれば、早い段階で、しかも単独で行かせるはずはない。名指しされた遥香の正義感と、手一杯のフロントの状況が、UGに味方したのだ。フロントは、外出する団体客へのインフォメーションでまたも忙殺されていった。

 3分の1ほどの照明に落とされた管理のオフィスは、静寂な時の流れに包まれていた。残業していた佐川は、珈琲のドリップが終わるを待っていた。今夜がナイト・マネージャーだったのだ。もともと、管理はひとつのセクションだった。現在は統括する支配人職を置かずに、総務と経理の各マネージャーを、総支配人自らが直轄している。山岡の時代にそう変更され、互いの情報共有も、人的ローテーションも行われなくなっていた。
「はい。飛び切りのを淹れましたから。」
彼は、隣のデスクでまだ言葉の出ない遥香に、愛用のマグカップを差し出した。小刻みに震える彼女が落ち着くのを待って、フロントには佐川が代わりに出向いて事情を説明したのだ。
「あたたまりますよ。」
バンバンバンと大きくドアを叩きながら、新海五郎の名を呼ぶ声が聞こえた。本当に危機一髪だったのだ。総支配人の白石宗一郎が、寸でのところで遥香を助け出してくれたのである。
「ご無事で何よりでした。」
やさしい声が身にしみる。遥香の瞳が、たちまち涙で潤んでいった。白石は、五郎とは旧知の仲だったのだ。否、空前絶後のUG対決を、組織だった彼らの一団と繰り広げ、ひと月もの長い闘いを制して、ビタ一文まけることなく見事にホテルから追い出したのである。五郎は、二度と白石の率いるホテルではワルサをしないと、半ば呆れ顔で笑いながら去っていった。今、彼ら2人は、ホテルのバーであの時の話を肴に盃を酌み交わしている。遥香も、警察沙汰にはしないことに同意していた。彼らがすんなり引き渡したのも、白石がそれを約束したからだ。あえて卑劣な輩と酒を飲むのも、二度と彼女に手出ししないよう念押しするためだった。遥香は、客室へ向かう前に、偶然佐川と顔を合わせていた。相手の名を確認した彼が、総支配人に火急を告げてくれたのだ。“あいつ”以外の者が着任していたなら、万事休すであったに違いない。
「…おいしい。」
佐川は、裏社会の猛者たちとの熾烈を極めた闘いを、間近で全て見ていたのだ。
「でしょう。」「お代わり、まだありますからね。」
やっと、遥香は彼に微笑んでくれたのだった。

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