赤ちょうちん|ぬくもり2-8

 ウォーキングは週に2回。朝のゴミ出しの時間に合わせて、1時間程度連れ出してもらっている。他にも分別ゴミの日など、瑞希が自らチェックして、翌月のスケジュールを組んでくれていた。午後からはホームヘルパーとして、今は週3回ほどのペースで、買い物や食事の下ごしらえなど、翔太のいない平日を中心にサポートしてくれている。段取り良く、限られた時間を目一杯有効に使いきってくれるのだ。恐らく、彼女でなければここまでしてはもらえない。宏之にとっては、ただ独りの、何でも話せる“友人”のようでもあった。
「今日はお刺身が半額でした。」「3段目の左側に入れておきますね。」
「ありがとう。楽しみです。」
冷蔵庫の中の物の配置は、翔太と決めた頃のままだった。
「お野菜の傷んだ物も処分しましたからね。」「レトルト食品の賞味期限も確かめました。」
「すみません。助かります。」
詳しいことは何も知らない。瑞希の年齢も、家族のことも、どこに住んでいるかも知らなかった。宏之は、自らを厳しく律しているのだ。彼女に異性としての興味をいだくことを怖れていた。今もなお、由紀子への深い愛は消えていない。二人の時は、あの日のままで止まっているのだ。まぶたの裏に浮かぶ愛しい妻の笑顔が、彼にとっては永遠の宝物であった。
「ご飯も、いつもの時間に炊き上がります。」
自分のことをどう思っているのか。気にならないと言えば嘘になる。やさしさも、心遣いも、テキパキとした手際の良さも、まさに非の打ちどころがなかった。結婚しているとしたら、伴侶はかなりの幸せ者だ。きっと、さらにやさしいご主人と、可愛い子供にも囲まれているのだろう。彼女の作る家庭なら、ぬくもりに満ちた、愛にあふれる家庭に違いない。
「今日はこれで。」「次は…。」
だが、瑞希が玄関を出ていった瞬間、どうしようもない喪失感を覚えるようになっていた。彼の心は、由紀子への後ろめたさと、認めがたい想いでバランスを失いかけていた。否、よしんば彼女が独り身で、特定の交際相手がいなかったとしても、こんな視覚障害者の、生活もままならない中年男に興味をいだくはずもない。瑞希ほどの女性なら、どんなに条件の良い男性との結婚でも望めるはずだった。分かり過ぎるほどに分かっているのだ。それが嫉妬に似た感情であることも、生涯一人と誓った由紀子への裏切りであることも、そして、自分がもはや誰かを幸せにできる人間ではないことも、嫌と言うほど分かっていたのである。宏之は、小さな仏壇の前で手を合わせた。愚かな邪念を振り払うためだ。悲し気な由紀子の顔が浮かんでくる。彼の心は、贖罪の念で一杯となっていた。

 遥香が呼び出されたのは、勤務を終えて帰り支度を始めていた頃だった。何なら迎えに行くとまで言われ、助けられた礼もきちんと伝えていなかったこともあって、シブシブ重い足どりで指定の場所へと向かったのである。総支配人の白石宗一郎が牛スジを持ったまま手招きしていたのは、赤ちょうちんのぶら下がる屋台のおでん屋の前だった。
「ほんとですね。すごい美人さんだ。」
「そやろ。大将も目えの保養になる。」「その分まけといてや。」
あれ以来、遥香は客室階へ上がれなくなっていた。その話を、フロントのサブマネージャーから聞かされたのだ。意識的に平常心を装ってはいても、意識下では恐怖が拭い去れてはいない。彼はそう判断したのである。このままでは、いずれにしてもホテルの仕事が続けられなくなってしまう。宗一郎は、何とかそれを食い止めたいと考えていた。
「お客さんは、何からにしましょう。」
「うーん、そうねえ。」「じゃあ、大根とコンニャク、それとちくわをお願いします。」
「はいよ!」
本当は、牛スジが大好きなのだ。だが、彼と同じ物を頼みたくなかった。
「佐川もさそたんやけど、今日は先約があるらしい。ありゃあデートとちゃうか。」
「結婚、するみたいですよ。今の彼女と。」
相変わらず目は合わさない。それでも、会話を拒むことはなかった。
「ほんまか!?」「あのクソ真面目が快挙やな!へえ!」
宗一郎にも経験がある。バブルの時代、どれだけ求人広告を出しても、ロクな人材が集まらない状況だった。総務の彼がランチタイムのヘルプに入っていたレストランの調理場で、思い上がった若いコックに難癖をつけられ殴りかかられたのだ。日頃から、火、油、包丁を扱う調理場での喧嘩は厳禁だと言い聞かされていた。他の先輩コックたちが引き剥がすまでの数秒間、腕に覚えのある宗一郎がじっとたえて、殴られるがままになっていた。だが、本当にショックを受けたのはそのあとなのだ。人材不足を理由に若いコックは処分保留とされ、暴力を固く禁じていたはずの料理長からも、部下の非を認めて謝罪する言葉はなかった。
「遠慮はいらん。腹一杯食うてかまんで。」「ここのおでんは世界一や。」
自分で、自分の心に打ち勝つ以外、他人が手助けできる解決策はなかった。彼自身も、全くレストランに足が向かなくなってしまったのだ。ホテルを辞めるか、克服するかしかない。最後に選択したのは、自らその若いコックを飲みに誘うことだった。
「はーい。ぜーんぜん遠慮なんかしませんよー。とーっても高そうなお店ですからねー。」
「おっ、言うやんけ。」「大将、日本酒頼むわ、熱燗でな!」
「はいよ!」
「私も熱燗にしよっかなあ。今夜は冷えるわあ。」
「はいよ!」
「それから、タマゴと…。」
店主は、何やらニヤニヤと笑い出した。
「ガンモとハンペンにしますか?」
「えっ、何で分かったの?」「御主人て、元マジシャンとかですか?」「すごーい。」
宗一郎も、素知らぬ顔で笑みを浮かべていた。
「いえいえ。頼まれる物が順番までご一緒なんでね。」「あっ、牛スジだけ違ったか。」
「はあ!?」「ちょっと、冗談やめてよ!今の全部取消して!」「えーっと!」
足のふらつく遥香を、彼女の借りているワンルームのマンションまで送った。自分をごまかすために、彼と張り合うていで飲み過ぎたのだ。部屋のキーを挿し込んだ時だった。
「あなたは…。」「私に、襲いかかったり…しないの。」
反転してドアに背中を押し付け、しぼり出すような声で、見守っている宗一郎に問いかけたのだ。他には誰もいない。寒々とした蛍光灯の白い明りの下で二人きりであった。
「今なら、簡単よ。」「ふらふら…だから、私。」
「ほんまに酔うてるな。」「他の男やったら勘違いするで。」「ほなな、帰るで。」
「恐かった!」
立ち去ろうとする彼にそう声を荒げたのだ。
「死ぬほど恐かったの!」「独りになると、足の震えがとまらないのよ!」
「如月…。」
「今も!」「恐くて恐くてたまらないの!」「毎朝、足が震えてホテルへ行くのが恐いのよ!」「どうしようもないの!」「自分が!」「自分が自分でなくなっちゃったの!」
「あっ!」
体が危うく崩れかけたのだ。とっさに両肩を掴んで支えていた。遥香は、そのまま彼の胸に額をこすり付け、下を向いた姿勢で大粒の涙をあられのように降らせたのである。
「助けて。」「助けて…お願い…だから。」
大きく肩を震わせていた。酒の勢いを借りて、心の膿を吐き出しているのだ。
「いっぱい…。」「いっぱい泣けばいいんだ。」「もう我慢しなくていい。」
彼もまた、遥香の哀しみを受け止めて、本当の、素顔の自分に戻っていた。
「泣いて泣いて。」「恐いもの全部、きれいさっぱり洗い流してしまおう。」
宗一郎は、抱き締めてしまおうとする両腕と、必死に闘わなければならなかった。
「俺がここにいてやる。」「如月遥香が戻ってくるまで。」


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