指先|ぬくもり2-9

 かるがもは師走を迎えていた。毎年恒例の忘年会も近付いている。ますます活気にあふれる教室であるはずなのだが、このところの二人には気鬱な日々が続いていた。
「最近、とんと出番が少ないのう。」
「あんな甘い物ズキ女のどこがいいいのかしら?」
「ちと登場人物が多過ぎはせぬか。」「わしらのことを忘れておろう。」
「ほんと、ヒロさんも物ズキだわ。」「タデ食う虫もスキズキってこと?」
「本業はアーティストなんじゃぞ。仕事そっちのけでスケジュールを空けておるのじゃ。」
「ミカズキみたいに細いんでしょ?」「ね、どうして12月は師走ズキって言わないも?」
「こっちはボランティアなんじゃ。」「作者になめられてはおらぬか?」
「まさか忘年会にまでこないでしょうね?」「ああ。不安の虫がウズキ出したわ。」
「ズキズキズキズキと、ほんに女々しいのう!」「わしの話を聞いておるのか!?」
「そっちこそ何よ!そんなに出たいならもっと芸を磨きなさい!」
「げっ、芸じゃと!?」
「だはははだけじゃ、飽きられるに決まってるじゃない!」「忘れられて当然よ!」
「何と!?」「わしをどこぞの忍者と一緒にするでない!隠し芸など必要ないわ!」
宏之と瑞希のことが気になって、葵は情緒不安定になっているのだ。険悪な二人が、ヒートアップしそうな時だった。重い冷気と共に、真っ暗な小紅螺が現れたのだ。
「こんにちは…。」
今日ばかりは、教室中がその冷却効果を歓迎した。
「ひっ、久しぶりじゃのう。息災であったか。」
「はい…。お陰様で…。」
「お帰り~。小人の国から無事に戻ってこられて良かったわ。」「どうだった?ガリバー旅行記の感想は最悪だったでしょ?」「細ーい糸で地面に縛り付けられたりしなかった?」
「…いえ。美玲さんも、とても素敵な方でした。」
葵の左右の眉尻が、交互に二度ずつピクピクと吊り上がった。
「ステキ!?おできの間違いじゃないの!?」「あっ、そうか!小さいから見間違えたのねえ!そうかそうか!」「今度は絆創膏持っていきなさーい!視界から完全に消せるわ!」
「チャンラー!」「八重ちゃんも、登場場面が少ないんだぞー!」
満面の笑みでオーバーアクションする八重子が飛び込んできた。
「おおっ、聞こえておったのか!?」「何と言う地獄耳じゃ!?」
「おできとかけまして、秋のバス旅行と解く。」
「あはっ、ちょっとトピック古いけど…。」「いよっ、そのココロは!?」
「どちらもハレが気になります。」「チャンラー!」
「なるほどのう!腫れと晴れか!?やるのう!」「で、何で秋なのじゃ?春はどうした?」
正村家のワンボックスカーは、助手席が90度スライドして昇降するリフトの座席になっている。高齢で膝の悪い圭一郎の母のために奮発したのだが、他界した後は活用する機会もなかった。それが、小紅螺の送迎には幸いしたのだ。運命とは、まさしく奇なるものだった。

 この日まで、松山俊哉の辞書にも、挫折と敗北の二文字はなかった。彼の人生は揺るぎのない自信と栄光に満ち満ちて、自分は神に選ばれた人間である、そう本気で考えていたのだ。必ずや偉業を成し遂げ、この世の春を謳歌し、有象無象の庶民から尊崇と羨望の念をいだかれる。それが当たり前。それ以外にはあり得ない。自分の他は、皆が皆、脇役の大根役者かエキストラに見えていた。田所常務でさえも、今日の今日まで、その中の一人であると考えていたのだ。その男が登場するまで、自身の考えに疑いを差しはさむ余地など微塵もなかった。
『今後は、私がお嬢様の代理人となります。』
弁護士を名乗る桐山京介(キリヤマ キョウスケ)は、冷ややかに見下ろしながら、ベッドの上で事態を呑み込めずにいる俊哉にこう言い放ったのだ。
『田所万作様からは、速やかに退職の手続きをとるようにと、そうご伝言がありました。』
何を言っているのだ。デタラメばかり並べるんじゃない。お前は一体、何者なのだ。常務が、真帆が、俺との離婚を望むはずがないではないか。ましてや退職を迫るなど、言語道断の世迷い言にしか聞こえなかった。自分は、社の将来を担うかけ替えのない逸材なのだ。直接、常務に確かめる。直接、真帆に確かめる。俊哉はそう矢継ぎ早に言葉を返していた。
『奥さんのほうも出ないねえ。』
家政婦の妙子が、彼の携帯に耳をあてていた。
『もういい!』
着信に気付けば、妻のほうからかけてくる。彼は、そう言って口をつぐんだ。頭の中で、桐山と言う弁護士に誰が依頼したのか、なぜあんなデタラメばかり並べたのか、自らを納得させ得る理由を探し始めていた。激高していた気持ちを抑えて、どんな悪意がそこにあるかを冷静に考えようとしたのである。だが、都合の良い言い訳が見付かるはずもない。エイプリルフールでもあるまいし、すぐにバレるような嘘を、誰かが仕掛ける必然性はどこにもなかった。日暮れが近付くと共に、日参していた真帆が現れないこともそれを裏付けたのだ。
「二、三日前から急に冷え込んで来たね。インフルエンザも流行ってるみたいだ。」
もしかしたらそうかもしれない。妙子は、見るに見かねて暗示をかけたつもりであった。しかし、それが一時の慰めでしかないことも知っていた。もちろん松山俊哉が初めてではない。急転直下の悲劇の中で、心をズタズタにされていく患者の憐れを、数え切れないほどに見てきていた。どんなに泣き叫んでも、もはや健常者には戻れないのだ。手術後は、頭骸骨にボルト4本でヘッドギアを固定し、その先に砲丸投げを思わせる鉄級をぶら下げていた。彼は無反応だった。自分に何が起きたのか。わずかにしか動かない指先が、俊哉に全てを語り出していた。





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