独り|ぬくもり2-10

 大都会の夜に、再び悪鬼がうごめき出す。漆黒の闇が、邪悪な心を覆い隠してくれるのだ。危険な影ほど音もなく忍び寄る。気付かれぬよう地を這って、獲物の間近で牙を剥くのだ。
「残念だったな。あと一歩だったのに。」
立川健一(タチカワ ケンイチ)は、根城にしている居酒屋の個室で河野咲にそう話しかけた。
「チャンスはまだあるわ。ほかの方法も、ちゃんと考えてあるから。」
「ふん、ミイラ取りがミイラにならないよう気をつけるんだな。」
「そうね。」「せいぜい気をつけるわ。あいつら、ヘビみたいに執念深い連中だもの。」
彼は、ホテルの金の流れを握る経理のマネージャーだった。
「まっ、いずれにしても如月遥香には、今度こそ確実に消えてもらうつもり。」
信頼されていたメイドが、それなりの金を握らされて病欠となったのも、大量のチェックインでフロントが謀殺される日に、UGの罠がタイミングよく仕掛けられたのも、遥香を葬り去りたい彼女が内通していたからなのだ。新海五郎と連れ立って、最初にホテルを訪れたのが、咲を育てた叔母だった。まさかに宗一郎が助け出すなど、全くの計算外だったのである。
「恐い女だ。」「それで、坊やのほうは?」
「ワンちゃんみたいで可愛いわよ。何でも言うこと聞いてくれるし。」
「佐川の情報は取れたのか?」
「まだ。」「今、調べさせてる最中。」
彼女たちは、ある大きな不正に関わっていた。白石の意を受けた佐川が、あれこれ嗅ぎ回っているのではないか。そう案じていた。新任の総支配人が、個別に予算をチェックし始めたのが、危機感をいだくきっかけだった。咲が、南田良介を誘惑したのはそのためなのである。
「絶対に勘付かれるなよ。」
「大丈夫。あの人は、私が護ってみせる。」「どんな手を使っても。」
山岡との関係は、五年も前から続いていた。彼女が不正に手を染めたのも、そのためだったのだ。ずっと、二番目の存在であることに甘んじてきた。遥香の離婚を知った時は、自らの命を絶とうとさえ考えたのだ。だが、今なら密かに葬り去ることができる。幸三の目のとどかないことが、独り残された如月遥香を危機に追いやっていた。
「あのクソ真面目は、金じゃ落とせない。」
「分かってる。そっちの方も考えてあるわ。」
立川は女の争いに興味はなかった。彼の中にあるのは、おのが保身と金だった。山岡は、開業までには二人を呼び寄せると約束していた。ビッグプロジェクトの巨額な資金を、総支配人が黙認の元でかずめ盗ることができるのだ。今ここで、白石たちに尻尾を捕まれるわけにはいかない。裏社会に通ずる咲が、立川にとっての大事なカードであった。 

 全盲の視覚障害者が最も恐れているのは、人生において最後に独りで残されることだった。健康な晴眼者であっても、孤独な余生を望むはずもない。日常生活を単独で自己完結のできない全盲者たちにとって、身内のいない毎日が、どれほど不安で困難を伴うものなのか。さらには、ただでさえ社会から切り離され、自宅に閉じこもりがちな彼らが、言葉を交わす相手もなく、閉ざされた世界の中で心を病んでいったとしても不思議ではなかった。逆境をものともせず、ハンデをバネにして光り輝く全盲の視覚障害者たちもいる。だが、少数派に過ぎない。大半の、平凡な暮らしにささやかな幸せを感じて生きてきた者たちには、最後に独り、この世に置き去りにされることが何より恐ろしいと思わずにはいられなかった。
「ただいま。」
「お帰りなさーい。」
「ごめんねえ。遅くなっちゃったわ。」
母の帰りがわずかに遅い。それだけでも、美玲の心は不安に陥る。どこかで事故に遭ってはいまいか。急な病で動けずにいるのではないか。不吉なことばかりが頭に浮かぶのだ。
「市役所と銀行に寄ってきたから。」「ふうっ、やれやれだわ。」
父を早くに亡くしてから、母との二人三脚で今日まで生きてきた。
「洗濯物を取り込んだら、珈琲淹れるね。」「帰りにケーキも買って来たのよ。」
「ありがとう。いい匂い。」
もしも。もしも、母がいなくなったら、誰が役所と銀行へ行って、自分のためにケーキを買ってきてくれるのだろう。今日と明日は何も変わらない。恐らく、来週も平穏無事な日々が訪れるに違いない。しかし、時は流れる。毎年毎年、必ず齢を重ねていくのだ。しだいに、たった一人の身内か老いていく。今、何を準備しておけば良いのか。その時、誰を頼りにすれば良いのか。母をおいて、天涯孤独な彼女に答えの見付かるはずもない。わずか、体重の1%にも満たない両眼のために、人としての普通の暮らしをいとなむことさえできないのだ。情けなさや悔しさではない。いずれくる未来に、逃れがたい不安を覚えるだけだった。生きる意味を見い出せずにいる小紅螺と、生きるすべを見い出せずにいる美玲が、かるがものせまい教室で出会ったのは、単なる偶然に過ぎなかったのであろうか。
「あったまるわあ。」「どう、ケーキおいしい?」
「おいしいわ!」
やがては、今日を切ない気持ちで思い出す時がくる。母の声が消えた独りきりのこの家で、母の淹れた味とは違う珈琲を飲みながら、このケーキの味を思い浮かべるのかもしれない。






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