小さな夢|ぬくもり2-13

 久々の美味なランチと、彼女の軽快な話術で、いつしか遥香の言葉も弾んでいた。あの日以来、宿泊支配人として悩み続けていたからだ。経理の河野咲から、フロントで不正な会計処理が行われているのではないか。具体的な例まであげて、そう指摘されていた。
「へえー、そうなんですか?」「だから詳しいんですねえ。」
ペーパーレスが主流の昨今、手書きの書類がまず残らない。パスワードの情報を総務から抜き取れば、こっそりあとから改ざんするのは容易だった。経理の立場ならなおのことだ。
「そうなの。」「ですから如月さんに強いシンパシーを感じるんだわ。」
「私も、初めてお会いした時から、なんかお話ししやすいなあって思ってました。」
「ああ、嬉しいわあ!」「ね、私たちお友達になれそう。」
「はい!ぜひ!」
ピアサポーターの如月遥香を指名して面談に訪れたのは、サービス業が大好きと言う佐原夕子(サハラ ユウコ)であった。暗い面持ちで、深刻な相談ごとの多い中、彼女のすずしげな笑顔が遥香の救いとなった。何度か面談を重ねるうちに、気が付けば遥香自身が悩みを打ち明けていた。今日のランチの誘いも、二つ返事で了解していた。
「お忙しいシーズンが過ぎたら、お酒も付き合って下さるかしら?」
「ええ、もちろん。」「クリスマスが過ぎれば、年末まではヒマになります。」
「じゃあ、お日にちも決めちゃいましょうか?」
「楽しみー!」
経理の指摘が真実としたなら、フロントで関わっているのは複数名が想定される。誰かが単独で現金をごまかずのは、共同で確認するオペレーション上から考えても不可能だからだ。
「そうなの、これよこれ。」「お話に夢中で、忘れちゃうところだったわ。」
「あっ、これですかあ。」
夕子が彼女に手渡したのは、誰もが知る医薬品メーカーのサプリメントだった。
「気持ちが落ち込んだ時とかあ、不安な時とか。」「体がだるいなあ、なんてときもおススメ。びっくりするくらい、ほんとに元気になれるのよ。」「私も手放せなくて。」
「おいくらですか?」「あ、ここに…。」
「いいのよ、今日は。」「お友達になった記念に差し上げるわ。」
「いえ、それは困ります。」「もし良ければ、次からも佐原さんにお願いしたいから。」
「そう?」
とても人気で、一般的には手に入りにくい。自分なら特別なルートがあるから、遥香にも格安で譲って上げることができる。一流会社の安全で安心なものだから、ぜひ一度試してみるべきだと、夕子が愛用している買い置きを、わざわざ未開封のまま持参してくれたのである。
「分かったわ。じゃあ、お気持ちだけの金額で…。」
少額でもお金を支払わせておくことが肝要だった。女性は必ず元を取る。実際に試してみる確率が、この段階でかなり高められたのだ。遥香は言葉巧みな夕子の術中にはまっていた。
「遥香さんて、お呼びしてもいいかしら?」
「うふふっ、そのほうが嬉しいです。私も夕子さんでいいですか?」
二人は店の前の陽だまりで、名残惜しそうに別れた。足取り軽く立ち去るピアサポーターのスレンダーな後姿を、妖艶な色香を放つ佐原夕子が楽しげに見送った。

 小紅螺は、勉強会の回を重ねるごとに、百葉美玲に惹かれる自分を感じていた。クールで、そっけなくて、決して甘えさせてはもらえない。きちんと復習してこなければ、次は教えてくれないという緊張感もあった。心の内を見透かすような、鋭い洞察力まで持っている。だが、一番に想うのは、常に明るく生きようとする彼女の姿勢であった。
「あの…。」「ちょっと、お聞きしたいことが…。」
「あら、なにかしら?」
「プライベートなこと、訊いてもいいですか?」
「オホホッ、年齢と体重以外なら良くってよ。」「あっ、恋愛相談はお断り。」
二人の背中越しに、正村圭一郎が興味深げに耳を澄ませている。平素から物静かな彼ではあったが、かるがもの教室にいるときは、自らの存在を皆の前面に押し出してくることはない。どこまでいっても、サポーターは脇役だと考えているのだ。自分のボランティアは、単なる自己満足なのだとも彼は言う。多くの障害者を支えていることの自負と、自らの天命を果たしている手ごたえが、そうした謙虚な表現に置き換えられているのかもしれない。その黒子に徹する圭一郎が、絶対零度だった小紅螺の心に起き始めた変化を聞き逃すはずもなかった。
「美玲さんの…、夢ってなんですか?」
「えっ…。」
小紅螺は戸惑った。もしかしたら、訊くべきではないことを訊いてしまったのかもしれない。いつものように、切れ味の良い答えがすぐに返ってくると思い込んでいたからだ。言葉を探している美玲の様子に驚いた。一瞬の沈黙が、息を呑む時間に変わっていた。
「ここにいらしてる障害者の皆さまを、わたくし一人が代弁できるわけではないけど…。」
他のメンバーたちは、いつも通りにワイワイガヤガヤ。特段、彼女たちの話し声に耳を傾けてはいない。正村を除けば、二人きりのひそやかな会話であった。
「たぶん、わたくしと同様に…。」
美玲は、何かを思い返すかのような表情だった。
「今の自分を受け入れるために、いらしていると思いますのよ。」
質問したことへの答えではなかった。
「ここへたどり着くまで、いっぱいつらい思いをなさって。」「どうして自分なんだろう。どうしてこんな目に遭うんだろう。何のために生まれてきたのか。何のために生きていくのか、自分が誰なのかも分からなくなって、ようやくここまでたどり着いた。そう思いますの。」
小紅螺は、目頭が熱くなるのを感じた。
「そして、皆さま気が付かれますのよ。」「今のままの自分を、ありのままの自分を受け入れることから始めよう。自分で自分を拒んではいけない。できないことを数えるのではなくて、今の自分にでもできることを考えよう。そうでなければ、自分で自分を見捨てることになってしまう。それが一番、自分自身にとって残念なことなのだってね。」
美玲を見詰める瞳から、一筋の涙が流れ落ちていた。
「わたくしの夢は小さなことばかり。」「すぐに手の届きそうなことですの。」
やさしい笑みを浮かべていた。
「今は。」「あなたがインストラクターになってくれること、かなー。」
障害者が障害者をサポートする。そこには健常者では決してまねの出来ない、正村圭一郎と山崎菊五郎の強いメッセージが込められていた。


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