効果|ぬくもり2-14

 人の心は大抵の場合、生まれながらにして強いということはなくて、宿命や運命によってたくましく強く鍛えられたり、その反対でひ弱なものや卑屈なものになったりもする。しかし、強い心が必ずしも健全で、弱い心が不健全かと言えばそうではない。恐れを知らぬ邪悪な心も、繊細で傷付きやすい正義の心もあるからだ。しかるに、心の壊れやすさは、強さや弱さにも関係がない。自らの許容範囲を超えた出来事が起これば、誰の心でも、いとも簡単に壊れてしまうことがある。それは、事の大小や質だけの問題ではなかった。深刻さや衝撃の度合いは、受け止める側の立場や環境によっても相当に異なるのであった。
「あっ、やだーっ。」「これってクマなの?」
目の下あたりを触りながら、遥香が鏡に向かってそう呟いた。
「うわーっ、悲しいアラフォーの私。」
サプリを呑んだ初日には、それなりの高揚感があった。心が晴れ晴れとして、仕事にも前向きな気持ちでいられたのだ。そのお陰か、夜もぐっすりと熟睡することができた。美容の効果も高い。三日ほど続けて、二日間あけてみた。やはり昨夜は眠れなくなったのだ。フロントスタッフに疑いの目を向けなければならない。自分に強い反発を覚えて、そのストレスから解放されずに目がさえてしまっていた。今日も、このサプリの力を借りよう。遥香は、決められた量よりも少なめを手に取った。夕子と次に会うまでは、これを大事にもたせなければならない。代金を払うと言ったがために、二週間分の安価なお試し用を勧められたのである。
「よし。これで今日はバッチリだわ。」
検索した限りにおいては、確かに品薄で、半年待ちが当たり前となっている。これだけの効果が実感出来れば、むしろ当然のことのように思えた。永遠に呑み続けるつもりではないのだ。フロントの疑いが晴れるまで。彼女はそう自分に言い聞かせていた。

 いてもたってもいられなかった。サドゥンリーのコンサートが間近に迫っているのだ。しかも、十分に日帰りのできる場所だった。これは。二人を引き裂いた神の、贖罪とも言える導きに違いない。純粋な愛を見落としていたと、ようやく気が付いてくれたのだ。自分と大樹は、神をも動かす真の絆で結ばれている。そう考えていた。
「なに言ってるの。ね、自分がなにを言ってるか分かってるの?」
迎えに来た梨田知世(ナシダ トモヨ)の車に乗り込んだ途端、胸ふくらませる真帆が想いのたけをぶちまけたのだ。たった一人の親友は、彼女のお腹に宿る命のことも知っていた。
「本気で旦那さんと別れる気?」「ほんとに本気なの?」
知世は、大型ショッピングセンターの駐車場に車を停めた。スマホのやり取りでは埒があかない。映画を観に行くという名目で、彼女を実家から連れ出したのだ。
「俊哉さんのことは、父がもう…。」
「お父さんは関係ないでしょ!真帆自身のことだよ!」
そう声を張ってはみたものの、昔の男の出現に舞い上がっている親友に、自分の言葉が効果を持たないことを彼女自身が一番よく知っていた。一度きり、中村大樹とは面識がある。だが、芸名をヒロキとカタカナで読み替えていたために気付かなかったのだ。知世の父親は、興行の世界に顔がきく。真帆を楽屋に送り込むくらいは造作もなかった。
「で。」「赤ちゃんは、どうする気?」「どんどん大きくなるんだよ。」
「分かってる。」
分かっているようには見えない。今は、それどころではないのだろう。
「大樹に逢ってから決める。」「とにかく、大樹に逢ってからじゃないと…。」
もう、生涯に一人しか生まれないはずの松山俊哉の子の運命を、なんと言うむごたらしい因果なのか、数年前に田所万作が無理やり真帆と引き裂いたであろう彼女の元恋人が握っていた。

 どんなに忙しくても、入浴には応分の時間をかけている。咲は、常に山岡幸三をイメージして、自らを磨く作業に一切手を抜くことはなかった。彼に愛されるたび、このまま死んでも悔いはない、そう心の底から思えるのだ。だがそれ以上に、餓鬼にも似た猛烈な貪欲さで、今一度いだかれる瞬間を夢見てしまうのであった。湯船で脚を伸ばす白い肌の全てが、幸三の熱い眼差しを覚えている。彼の腕に抱かれた刹那の、あの息も止まるくらいの切ない痺れを覚えているのだ。今さら、如月遥香などに横取りされてなるものか。でっち上げの不正で追い詰めて、必ずや自ら退職するように仕向けてやる。あとは野となれ山となれ。かなりのご執心だった新海五郎が、生き地獄に引き摺り込んでくれるに違いない。バイセクシャルの叔母からも、何やら楽しげなメールが送られてきていた。
「まさか…。」
無論、最後までは許していない。だが、違和感を覚えたのは南田良介なのだ。彼女には受け身的な幸三と違って、若くてがむしゃらな分、その部位の感触の違いに気が付いたのである。咲は、皮肉にも、以前に女性スタッフを対象にした遥香の講義で、乳がんを自己診断する方法を学んでいた。右の乳房の乳輪近くに、確かに小さなしこりのようなものがあった。
「まさか…。」
自分が、乳がんなんかになるはずがない。一時的な脂肪の塊か何かではないのか。恐らく、時間の経過と共になくなっている。この時はまだ、そう信じ込もうとしていた。




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