オフィス|ぬくもり2-17

 白杖には、二つの大きな役割がある。ひとつは、それが失われた視力の代わりとなることだ。視覚障害者にとって、何より恐ろしいのが“転落する”ことだった。あちこちにある階段はもとより、駅のホームや高低差のある場所など、知らずに転落すれば、大けがどころか命の危険にまで直結してしまう。否、小さな段差でも、転倒したら対処できずに、打ちどころが悪ければ同様の結果を招きかねないのだ。転落や転倒以外にも、激突回避や周囲の状況把握など、逸早く安全確保の情報を得るためには白杖の存在が欠かせなかった。そして、もうひとつが、自分が目の不自由な人間であることを、初対面の相手や行きかう人たちに伝えるという役割だった。聴覚障害者や精神障害者など、いわゆる“他人から見えない障害”と違って、白杖や車椅子の使用者の場合は、自らの補助具で他人に暗黙の注意喚起をすることができる。だが、残念なことに、誰もが気付いてくれるわけではなかった。道行く人の多くが、おしゃべりやスマホの画面に夢中で、そういった障害者か身近にいるかもしれないことなど意に介してはいない。見落としがちな白杖であればなおさらだった。視覚障害者にとって、歩いている人間そのものが一番厄介な障害物なのである。自分に気付いてくれない人の動きほど予測不能なものはないからだ。特に、縦横無尽に走り回る子供たちは危険であった。
「お早うございます。」
入り口でそう声をかけてきたのは、このオフィスの責任者で、面接をしてくれた次長の平野琴美だった。今日からの五日間だけは、かるがものメンバーが交代で送り迎えをしてくれる。その間に、電車を降りてからここまでのコースを完璧にマスターしなければならない。おかしなことに、福祉サービスのガイドヘルパーは、通勤には全く利用することができなかった。何故なのかと理由を訊いても、福祉課の窓口では明確な答えを得られないのだ。そう決められている。彼らの口からは、その言葉以外は出てこなかった。
「初日が大雪で大変だったわねえ。」
「ええ。でも、ここは駅から地下街通って来れますから。」
「じゃあ、みんなに紹介するわね。」
いきなりだった。置き去りにされたのだ。
「やっぱりなあ。こうなると思ったんだあ。」
かるがものメンバーが、入口の外で見守っていてくれた。慌てて奥に声をかけてくれなければ、宏之には何が起きたのかも分からない。その場で立ち尽くしていただろう。
「ごめんなさいねえ。」
「いえ。お手数をかけます。」
「でも、多賀さんも自分で言わなきゃ。」「私たちも初めてなんだから。」
あなたの肩か肘を掴ませてやって下さい。そう説明したメンバーの言葉は無視されていった。女性だからか。それとも、人に指図されるのが不快であったのか。彼女自身が宏之の腕を掴んで引っ張ったのだ。奥へと消える宏之を、サポーターは不安げに見送った。

 松山俊哉は、驚異的な回復力を見せていた。長年この仕事に携わってきた妙子が、舌を巻くほどの早さでリハビリをこなしているのだ。暇さえあれば指を動かして、左右の手でシーツを摘まむ練習をしている。本当に、本気で社会復帰するつもりでいるに違いない。執念にも似た想いの強さをひしひしと感じさせていた。
「へえ、そうなのかい。まだ新婚さんなんだねえ。」
「ふん、笑いたきゃ笑え。俺は、みじめだなんて思ってない。」
「おもしろくもないのに笑えないさ。」「奥さんのことも、あたしにゃ関係ないからね。」
彼は、気付かれないタイミングで妙子を見た。若くもなければ美人でもない。制服が地味なことも手伝って、異性として感じることは全くなかった。言葉遣いも、自分以上にぞんざいで、女性らしい仕草ともかなり縁遠いのだ。今も自分のオフィスにいたなら、視界にも入らない底辺で暮らす人間の一人であっただろう。だが、今は彼女に頼るしかない。真帆が現れない限り、この里中妙子が俊哉の家族代わりであった。そう考えると、不思議な親近感も湧いてくる。ここにいる間だけなら。そう自分に言い訳して、今までは見下してきた、社会の底辺にいる彼女と会話を交わす気持ちになっていた。
「食ってかなきゃいけないからねえ。」「ボランティアってわけにゃいかないのさ。」
質問と回答がずれている。何故こんな仕事をしているのか。彼は、ふとそう尋ねてみたのだ。女性なら、ほかにも綺麗な仕事はいくらもある。赤の他人のシモの世話までするなど、かなりの報酬をもらっているのか。それとも、特別な理由があって止む無く続けているのか。第三者が納得のできる、合理的で整合性のある答えを求めていた。
「あんたは?」「あんたはなんで建築士になったんだい?」
自分の立場を説明して、こんな家政婦なんかに理解できるのか。簡単な質問にすら、まともな答えを返せなかったのだ。彼は、その場逃れの適当な言葉を探した。
「物を作ることが好きなんだ。」
「えっ、図面書いてんじゃないのかい?」
予想通りにかみ合わない。俊哉は、心の中で失笑した。
「俺の書いた設計図で、皆が代わりに作る。そういうことだ。」
仕事の話題は失敗だった。互いのレベルが違い過ぎる。否、生きている世界が違い過ぎるのだ。もっと日常的な、浅くて軽い内容の会話を心がけるべきだった。
「家族は?」「家族はいるのか?」
「ああ。」「息子が一人ね。」
「学生か、社会人か?」
「どっちでもない。」
妙子の答えが曖昧だった。自慢のできない息子なのだろう。そう受け取った。
「もしかして、引きこもりとかか?」
言葉の裏を読んで相手を思いやる気持ちが、今の彼には著しく欠けていた。
「まあね。似たようなもんさ。」
歯切れの悪い言葉は、訊いた側に気持ちの悪さが残る。俊哉は、さらに答えさせようとした。だが、彼女は、今頃になって最初の質問の答えを返してきたのである。
「何でこの仕事を選んだか教えてやるよ。」「誰かがやらなきゃいけないからさ。」
深い想いの籠る言葉の意味が、まるで理解できなかった。
「誰かがやらなきゃいけないから、誰かがやらなきゃいけないって分かってるあたしがやるのが一番なんだ。」「ほんとは金なんかもらいたくないのさ。うちに、ずっと寝たきりの大きな息子がいなきゃね。」
表舞台の頂点に立ち続けてきた俊哉に理解できたのは、この地味でぶっきらぼうな家政婦に、社会や家族の負担にしかならない寝たきりの息子がいるらしいということだけだった。





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