乳房|ぬくもり2-18

 女性にとっての乳房は、男性を魅せるためのシンボルであったり、わが子との愛の絆であったりもするが、その本当の意味合いを知るのは、ある日突然に、それを奪われてしまった時ではないだろうか。ひと言では語り尽せない。否、百人いれば、百通りの乳房に対する想いがあるはずだった。特に、未婚の若い女性であれば、襲いかかる喪失感や絶望感はいかばかりであろう。未来をもぎ取られたがごとく、当たり前の幸せがはるかに遠い彼方のものに思えてくる。そう、乳房とは、女性にとってそれほどに大きな存在なのであった。
「河野さん!」
総合病院の乳腺外科の診察室から、暗い表情で出て来たのだ。何があったのかは訊くまでもない。偶然に遥香と顔を合わせた咲は、口惜しそうに唇を噛んで目を赤くした。
「そう…。そうなのね。」
幸いにも早期であった。だが、不幸にも、腫瘍のできた場所が悪い。がんの摘出手術は、周辺の細胞ごとごっそり廓清するのが基本だった。つまりは、右の乳首と乳輪を失うことが避けられない。未婚の彼女に受け入れられるはずもなかった。遥香は、胸の潰れる思いがした。
「大丈夫…だった?」
主治医が、あの吉本忠則だと聞いたのだ。憔悴し切っている咲は、質問された言葉にピンとこなかった。若い女性の患者は、彼の診察で不快な思いをさせられる。ホテル内でも目立つ彼女が、何事もなく解放されたとは考えにくかったのだ。だが、今後もこの病院に出入りするピアサポーターとしての立場が、ストレートに問い掛けることをためらわせてぃた。
「その…。」「何か、嫌な思いとか…なかった?」
やはりだ。彼女自身も、初診の時から疑問に感じていたらしい。今日は、細かく説明するからと、診察の順番も最後にされて、必要以上に長い時間の中心が“触診”だったのだそうだ。今思い返せば、看護師もその場にいなかった。しこりのない側まで、念のためと言いながら執拗に触られたのだ。遥香にそれとなく促されて、咲は病院を替えるべきだと気が付いた。
「ありがとうございました。」
「私で良ければ、いつでも…。」
石川和代の記憶が蘇る。早期であるとは言え、精神的なショックは計り知れない。手術や治療のこともさることながら、乳がんであることを職場で公表するのは、女性には相当に高いハードルなのだ。自分の場合がそうだった。あの時、山岡がいてくれなければ、本当にどうなっていたか分からない。宣告後の二週間。がん患者には、のた打ち回る日々が待っていた。
「支配人がいてくれて、心強いです。」
女の自分でも眩しく思う。間近で見る遥香の美は、今の咲には憎悪さえも感じさせる。もう二度と、幸三に愛してはもらえないかもしれない。唯一その美に負った瑕疵を、明らかに見劣りのする自分も負うはめになったのだ。手間ひまをかけてきた体の優越感は、木っ端微塵となっていた。何が何でも、如月遥香の人生を滅茶苦茶にしてやろう。この時、受け止め難いショックを、河野咲の心は、そう摩り替えていったのである。皆に愛される遥香が、がん患者の救いの女神を気取るピアサポーターであることも許せなかった。奇しくもこの晩、夕子との女子会が待っていた。お試しとは比較にならない高い純度のサプリが、あの居酒屋で手わたされるはずだった。一か月後には、もうサプリなしではいられなくなっている。否、サプリを売ってもらうためなら何でもする精神状態になっているのであった。


 通常は三か月の使用期間を一か月に短縮することで、正式採用を前提に、短期の雇用契約を結んだのである。ショッピングセンターなどを中心に、子供向け英会話教室を展開する急成長したベンチャー企業だった。オフィスは、ほとんどが女性スタッフであった。いきなり入口で置き去りにされた大雪の初日は散々だったのだ。十人ほどのスタッフと挨拶を交わした後はデスクに放置され、オフィス内の配置も、自分がどんな仕事を任されるのかも説明がなかった。冷え切った体が尿意をもよおしても、男子トイレの場所も分からない。外出している男のスタッフが戻るまで、暫く待つように言われたのである。お昼の休憩に入った時、気安く話しかけてくる若い声の男性が、パニック障害をかかえている精神障害者であることを知った。彼は、ずっとオフィスにいたらしい。何故、営業の男性が戻るまで、トイレに連れていってもらえなかったのか分からなかった。だが、午後になって、次長の平野があの池上美羽を伴って出かけると、ようやく彼にも事情が呑み込めるようになったのだ。
『ごめんねえ。トイレの前くらい連れてって上げられたのに。』
自らを、古いだけのおつぼねと笑う酒田愛子(サカタ アイコ)が、申し訳なさそうに言った。
『仕方ないじゃん。次長は池上の言いなりだから。』
ハスキーボイスの野田由香子(ノダ ユカコ)がそう返した。続けざま、こうも口にした。
『て言うか、多賀さんは池上と何かあった?』
その後も、面接のことを根掘り葉掘り尋ねられ、彼が池上の目の敵にされる原因を探られたのだ。今は、好景気のお陰で、応募する障害者の数も減っている。働けそうな者なら、積極的に雇用するのが本部の方針らしい。たくさんの事業所をかかえるこのオフィスは、ほかにも障害者手帳を持つ者がいた。各教室の英会話の講師たちは、当然健常者ばかりだ。障害者雇用の数字をクリアするためには、こうした“人目に触れない場所”が、障害者手帳を持つ者たちであふれ返ることとなる。一定の空間に押し込められるうち、偏見や差別をはらんだ強い嫌悪感をいだく者を育てたとしても不思議ではなかった。もしも採用担当者がその感情を秘めていたなら、客観的で冷静な判断ができるはずもない。二人のネガティブな話を聞きながら、宏之はそうイメージさせられていた。つまりは、自分たちで採用しておきながら、早くも辞めさせるつもりなのか。本部への言い訳に、採用の事実だけが必要だったらしいのだ。少なくとも、池上美羽と言うこのオフィスのナンバーツーが、自分に何らかの悪意をいだいているのは確かなようだった。否、もしそうだとしても、採用されたことに違いはない。初日から、味方に引き入れようとする二人の言葉も、鵜呑みにするには早過ぎる。せっかく掴んだ正社員への道を、妙な足のすくい合いに巻き込まれて手放したくもなかった。明日は大晦日だった。仕事納めのオフィスを出る宏之は、迎えにきてくれたかるがものサポーターと共に、駅へと向かったのである。新年からは、単独で通わなければならない。先の見えない不安な気持ちは、待つ者のない自宅の前に吹きすさぶ寒風の中で、独り寂しく凍えかけていた。


「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック