錆びたナイフ|ぬくもり2-20

 真帆は追い詰められていた。再会を果たした大樹は別人だった。手の届かない存在と言うよりも、自分の知る彼ではなかったのだ。あれから時計が止まってしまっていた。お腹の子は、どんどん大きくなっている。千穂は、自分の生理がないことに気が付いていた。精神的なショックで遅れているのか。もしものことも考えて、産科を受診したほうがいい。そうも言い出していた。当然、万作も知っているだろう。妊娠していると分かれば、有無を言わさず中絶を迫るに違いない。五里霧中で、幻のような過去の幸せにすがろうとしていた彼女が、自らのお腹に宿る小さな命を、手放してはならない尊いものに感じ始めていたのである。
『本気で旦那さんと別れる気?』『ほんとに本気なの?』
俊哉は今、どうなっているのだろう。お腹の子を大切に感じた途端、その父親のことが気になりだしたのだ。自分のことをどう思っているのか。許せない、最低の女だと思われてもしかたなかった。あの事故以来、初めて彼の気持ちを想像してみた。自分にとっては他人事だった。自分のことばかり考えていて、可哀想で慰めの言葉もないと、まるでニュース番組の中の事故の被害者を生で見ているような感覚だったのだ。
『お父さんは関係ないでしょ!真帆自身のことだよ!』
知世の言葉が、今さらながらに胸に突き刺さる。大樹と父の間に、何があったのかは分からない。だが、大樹の冷たい態度が全てを物語っていたではないか。あの時、彼は自分を捨てたのだ。万作のとった行動がどんなものであったにせよ、大樹は甘んじてそれを受け入れた。否、彼にとっては渡りに舟だったのかもしれない。本当はほかにも女がいて、別れたいと思っていたのか。夢を叶えるための資金援助を提案されたのか。ぷつりと連絡が途絶えたのは、恐らく大樹自身の意思だったのだろう。自分が、憐れで愚かな女に思えてきた。
『赤ちゃんは、どうする気?』『どんどん大きくなるんだよ。』
真帆は、そっとお腹に手をそえてみた。ここに、わが子がいるのだ。自分がこの子の母親なのだ。少し考えてみれば分かることだった。自ら、お腹の子の命を奪っていたかもしれなかった。万作の横暴どころではない。わが子を、自分の都合だけで、護ってやらなければならない母親自身が殺していたかもしれないのだ。そう。俊哉にとってもかけがえのない命のはずだった。自分の罪深さと、中絶することの意味の空恐ろしさに涙があふれ出した。
「ごめんねえ。」「ごめんねえ、ママを…、ママを許して。」「ごめんねえ。」
義母の出かけた昼下がりのマンションで、彼女はお腹の子にそう誤り続けたのである。

 全く同じに見えるブッフェスタイルでも、ホテルにとっては立食ブッフェのほうが利幅が大きい。どちらも、料理が大皿に盛られてくるのは変わりがなかった。だが、大テーブルを皆で囲む着席ブッフェの場合は、出される料理が必ず人数分盛られている。公平に、テーブル内に腰掛けた者同士で取り分けようとするからだ。それに比べ、立食ブッフェの場合は八掛けほどの料理しか盛られてはいない。予め、少食の人がいることや、自由に話す相手を選べるために会話が弾んで、食べることに集中しないと、過去の経験値で調理場が見越していた。飲み物に関しても、立食ブッフェの場合は、実際に栓を抜いた数を幹事が把握しにくいのだ。余程にシビアな注文の仕方をしても、広い会場では、ウエイターたちが何本運んだかまでは確認しきれなかった。着席ブッフェなら、各テーブルに運ばれた数も分かりやすく、余っているテーブルのものを回させたりもできる。ホテルの大小を問わず、バンケット(宴会場)では、こうした駆け引きが常識となっていた。
「あ、はい。こっちにもらいます。」
新たな年の明けたホテルは、新年会や賀詞交歓会の予約で、猫の手も借りたいほどの多忙を極めていた。各セクションからヘルプ(応援)を出して、裏方の作業にあたらせている。経理からも、交替で誰かが手伝いに来ていた。今日は。河野咲の番だった。華やかな宴会場の裏の薄暗い通路で、ウエイターたちの下げてくる大量の皿やコップ類の片付けと、さまざまな残飯の処理に追われているのであった。パーティーの終了後は素早くどんでん返しして、次なるパーティーのスタートに短時間で間に合わせなければならない。ウエイターもウエイトレスも、その際の負担を軽くするために、必死に下げ物をして制服の下は汗ばんでいた。無論、不慣れなヘルプであれば、お手伝い気分ではいられない。まさに戦場のような有様で、額に汗して膨大な量と格闘していた。
『俺が咲さんのこと、一生守ります。』
若い南田良介の熱いセリフが、何度も頭の中で繰り返されている。自らの言葉に、責任を持つ年齢では決してない。たくさんの女性に目移りし、自分のものにしたら途端に飽きてしまう。将来を語ることも、愛の深さを語ることも、目的を遂げるための定型文に過ぎなかった。分かっているのだ。分かっていながら、心のどこかで期待しているのかもしれない。乳房を失えば、幸三に捨てられるのは火を見るよりも明らかだった。怖れは核心に変わっていたのだ。その時、良介が傍にいてくれたら、みじめな思いを少しは和らげてもらえるだろう。そんな不安と打算が、彼女の心をかき乱していた。来月初めに決まった乳がんの手術が、もうあとのない咲に重くのしかかっているのだ。遥香への憎しみもさらに増大していた。低くたれこめた曇天の下で、相手の喉を、錆びたナイフで掻き切らんとするような強い憎しみだった。
『ええっ、私がってこと?』『ちょっと資料を見せて!』
宿泊支配人を貶める準備は、着々と進んでいた。疑惑の矛先が自分にまで向けられていると知った時の、動揺した如月遥香の顔が忘れられない。叔母からのメールで、次のサプリを早めに買いたいと言ってきていることも承知していた。早くもドラッグ漬けの状態に近付いている。自分の手術前には、間違いなく遥香を葬り去ることができるのだ。
『申し訳ありませんが、今月中にご回答がないと、本部に報告することになります。』
『ちょっと待ってよ!そんなことになったら、本部の犯人探しがフロントで始まるわ!』
『ですが、証明ができない以上は。』
落ち着かない様子で焦る遥香に、彼女は諭すようにこう暗示したのだ。
『穏便に済ますには、誰かに責任を取らせるしか…。』『辞表一つで、事が収められます。』
とても部下思いで、正義感の強い宿泊支配人には十分な暗示であった。そして、高い薬物の効果で、しだいに極限まで情緒不安定となるであろう如月遥香にも、この単純なカラクリを打開する心の余裕がないはずだった。来月の今頃には、新海五郎の女にされている。そのことだけが、いちずに山岡幸三を求め続けた河野咲の大きな喪失感を埋めていた。凄まじい激痛を与える錆びたナイフは、既に遥香の喉元に突き付けられていたのである。




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