阿修羅|ぬくもり2-21

 瑞希の暮らすアパートは、昭和の香りがプンプンする、“超”が付くほどのオンボロ物件だった。彼女の部屋は、その中でも一番安い1階の真ん中なのだ。日当たりも決して良いとは言えなかった。ここで独り暮らしを始めて五年になる。間取りは2DKだか、引っ越して来た時と変わらず、必要最低限の家具しか置かれてはいない。毎日必ず手を合わせる小さな仏壇には、“いくよ”と書かれた粗末な位牌が置かれていた。食費も切り詰めて、生活は質素そのものだった。こつこつこつこつと貯金して、生まれてすぐに逝ってしまったいくよのためにお墓を建ててやりたい。そう望んでいた。そう、先祖代々が眠る父方のお墓には入れて貰えなかったのである。最後は、本当に元夫の子なのかとまで言われて拒否された。心が折れたのはその時だった。真冬の北風の中へ、位牌とコツ壺を抱いた瑞希を放り出したのだ。彼女が、二度と幸せを望むまいと誓ったのもその時だった。
『考えてくれたかい?』
瑞希にはもう一つ、宏之に内緒にしていることがあった。
『あ、いえ。まだ…。』
職場の上司からも、長く求婚されていた。この春も、一緒に研修に参加しないかと誘われている。本社が主催する泊りがけのものだった。宿は、彼自身が手配するのだ。どういう意味かは明白だった。何度か、二人で食事にも出かけていた。もう三年以上も、根気強く瑞希の心変わりを待ってくれているのだ。バツイチで、前妻との間に子供が二人いるらしい。だが、養育費を払っても、自分との生活には困らないと言う。無論、健常者だ。年齢も離れてはいない。実家や親戚が訳ありと言うこともなかった。やさしい性格で、皆への面倒みも良かった。
『もう少しだけ、考えさせて下さい。』
自分が子供の産めない体であることも、未だにメンタルクリニックへかよっていることも知っていた。この仕事を続けてこれたのも、彼のサポートがあったからなのだ。どこを探しても、断る理由が見当たらない。職場の仲間たちも、二人が結ばれるものと思っていた。
『えっ、そう?』
初めて耳にするセリフに、彼は舞い上がった。
『本当に考えてくれるんだね?』
瑞希は、答える代わりに、小さくうなずいていた。
『そっ、そうなんだね?』『もっ、もしもほんとにOKなら、すぐに申し込むから!』
どうして、彼を期待させるようなことを言ってしまったのだろう。自分の気持ちが分からなかった。ただ、本気になってしまうのが恐い。もう二度と、誰かに裏切られたくなかった。この人となら、それなりの家庭が築けるに違いない。幸せになろうと望まないなら、条件としては申し分のない相手であった。誰かを心から愛してはいけないと、そう自分に言い聞かせる自分が、あの言葉を口に刺せたのかもしれない。多賀宏之を想う時、彼女の心は乱れてしまう。そんな自分を受け入れることが、今の瑞希にはどうしてもできなかった。

 奴らが現れたのは、園児を乗せたバスが、帰りを待つ母親の前に停車した時だった。ルートを下見して、人目に付きにくい場所を選んでいたのだ。不審な黒いワゴン車から、見るからに人相の悪い三人組が飛び出してきた。
「可愛い坊やや!」
自分の子供を抱き上げられた母親は、見知らぬ大男の不気味な笑顔に凍り付いた。
「何するんですか!」「誠くんをおろして!」
幼稚園バスのステップを駆け下りた日置沙織(ヒオキ サオリ)が、園児を取り返そうとしたのだ。だが、もう一人の若い男に手首を掴まれ、車体にドンと背中を押し当てられてしまった。
「そうかあ。まこと言うんか。」「ふふふっ、おっちゃんらが、遊びに連れったろか。」
「やめてっ!」「やめて下さい!警察を呼びます!」
「へへへっ、ごっつう上玉やで!」「カキら相手では、宝の持ち腐れとちぇうか!」
最後の男も車内に乗り込んで、泣き出す園児たちの一人の首を掴むと、エンジンを止めた運転手の男性に向かって、このまま首をへし折るぞと大声で恫喝したのだ。
「誠くんをおろして!」「お願いです!」
「おのれが代わりでもええで。」「わいらと朝までドライブや。」
大男が、冷たい笑みを沙織に向けた。この時になって、ようやく騒ぎに気付いた園児の祖父母が背後の家から出て来た。近所の者たちも、窓から状況を確認し始めたのである。
「ホテルマンより贅沢さしたるで。」「また迎えにきたるわ、」
蒼白な顔で震える母親に子供を手渡すと、大男が彼女の耳元で囁いた。彼らの車が走り去った時、沙織の体はガタガタと震えてその場に崩れ落ちていった。

 総支配人室を訪れた佐川の顔も蒼白だった。大男の遺したセリフを聞けば、それが、自らや白石宗一郎に対する脅しであることが明らかだからだ。幸い、園児に怪我はなかった。それでも、事態を重くみた幼稚園側は、沙織に、当面は自宅待機するよう命じたのである。そう、佐川がプロポーズした相手が日置沙織だった。
「まさか、彼女が狙われるなんて…。」
うなだれた彼の言葉を、窓際に立つ宗一郎は背中越しに聴いていた。
「いえ、ご心配なく。」「私もこれで確信が持てました。」
さらにか細くなる声が痛々しかった。その時、誰かが入口の扉をノックしたのだ。
「後にしてもらってくれ。」
今の自分の顔を見られたくない。全身が怒りに震える宗一郎は、奥歯が欠け飛ぶほどに食い縛り、爪の先が手の平に刺さるくらいに強く拳を握り締めていた。許せない。絶対に許せない。山岡幸三を取り巻く卑劣な悪に、彼は阿修羅のごとき形相を浮かべていた。



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