天敵|ぬくもり2-22

 あの声で露陰(トカゲ)食うかや時鳥(ホトトギス)。美声を持つものが、必ずしも美しく生きているとは限らない。人間もまた、貪欲にさまざまな生き物たちの命を食していることに変わりはなかった。むしろ、飽食で贅沢な食べ方をする上に、大量の余った食品を廃棄していると言う点では、野生のいとなみに劣るのかもしれない。だが、心だけは美しいものを無駄なく求めることができた。それが音楽であり、絵画であり、文学であったりもする。しかし、それを奏で、それを描く者たちの心が清らかとは限らない。芸術は、時に激情を伴う。激情とは、排他的にほとばしる強い感情のことだった。平凡で、平穏な暮らしを望む者が、人を圧倒するだけの秀逸なものを容易く生み出せるだろうか。否、余程の偶然が重ならなければ、生み出し続けることは極めて困難と考えるべきであった。
「そう言う事だったの。」
年末年始の過密なスケジュールを抜けて、大樹がようやく彼女に事情を打ち明けたのだ。
「そんな手紙もらったら、ああするしかないさ。」
「なるほどねえ。ほんとだ。」
父親を介して、彼の手に渡った知世の手紙であった。切々と、親友とお腹の子を想う彼女の願いがつづられている。俊哉の事故で自分を見失っていることや、田所万作によって二人が引き裂かれたと考えていることなど、真帆が求めているのは昔の中村大樹であって、今の自分を受け入れるための心のより所なのだ。だから、一時的な感情でやさしくしないで欲しい。お腹の子のためにも、冷静に考える時間が必要だと書かれていた。
「本当は?」「本当のヒロキの気持ちは?」
新譜のジャケット撮影のため、二人は、ファーストクラスで南の島へ向かっていた。
「捨てたことに変わりはないから。今さら…な。本当の気持ちなんて関係ない。」
秋菜は、以前に当時の話を聞いていた。ただ捨てたのではなくて、大樹の愛は買われたのだ。彼の歌声に目を付けた大物プロデューサーが、たまたま嫉妬深い女性だった。金の卵を溺愛したその女性が、大樹に自分以外の女の影がちらつくことを許さなかったのだ。ビッグになるために、彼は真帆との連絡を絶った。つまりは、二人の愛を売り渡したのである。
「そっちは?」「そろそろ結婚なんじゃないのか?」
「ははっ、あたしたちのほうは、ずうっとマンネリでいきそう。。」
その後に移籍した別の音楽事務所で香坂秋菜と出会い、大樹はサドゥンリーのデビュー曲をプロデュースした。それこそが、大ヒットとなったBought Love(買われた愛)なのだ。
「あっ、島が見えてきた。」
「ほんと、キレイな島ねえ。」
きっと、今でも真帆と言う女性を愛している。ファンの女性どころか、自分にも一切興味を示さないのだ。秋菜は、そんな彼を憎からず想っていた。この世界は、人を狂わせる。お人好しでは、頂点には立てないのだ。自分の悲しい恋物語を歌にするくらい、したたかな心が必要だった。彼女は、あの楽屋の出来事すら、大樹が歌にするだろうと知っていた。

 田宮栄子(タミヤ エイコ)とは、電車の路線が同じであった。まだ通勤に不安の多い宏之にとって、彼女の存在で帰りの安心感が大きく違っている。出勤時は同じホームの場所で、同じ車両に乗り合わせる人たちが比較的に多い。自然に、視覚障害者への配慮がなされ、不測の事態も起こりにくかった。だが、帰りは違う。ほぼ同じ時刻に会社を出ても、その日によって、ホームの状況や車内の混雑が変わってくる。特に、お酒の入った人間の場合は、まず白杖に気付いてくれない。それどころか、そばにいるだけで危険に感じることさえあった。障害者に対して、強い差別意識や偏見を持っている者は、アルコールによってそれが増大されるのだろう。いかにものろまな邪魔者扱いで、わざと行く手を塞がれたり、下車する際に突き飛ばされたりもした。障害者に好意的な人間は、世の中に数えるほどもいなかった。
「次長は、つまり女なんだよねえ。」
栄子も、精神疾患をかかえる障害者なのだ。
「池上に操られても、楽だから受け入れちゃう。」「プライド高いのにね。」
「そうなんですか。」
この手の話は深入りすべきではない。彼は内心でそう思っていた。迂闊に同調すれば、後でどんな伝わり方をするか分からないのだ。女性は、感情によって判断が大きく左右される。何かの弾みで栄子の機嫌を損ねれば、自分を攻撃する材料にもされかねない。それほど親しくもない自分に、上司への批判を平然と展開すること自体が危うく感じられていた。それにしても、女性の職場は神経をすり減らす。仕事中のおしゃべりに付き合わされるのも辟易としていた。なににもまして、池上に頼りきりの平野琴美が情けなさ過ぎる。社長の女だと言う噂も、まことしやかに囁かれていた。これだけ酷評される上司を、営業マン時代の彼は知らなかった。能力も人格もない人物の下で働くほど、本当は才能に恵まれた部下にとって悲しい顛末はない。障害者としてそれを甘受するしかないことは、なおさらみじめで悲しかった。
「若い頃、レースクイーンだったらしくて、自慢たらたらで言ってるわ。」
「あの。」
「池上は、いかにも高飛車でしょ。理系なの。」「まあ、頭だけはいいから。」
「あの、田宮さんは独り暮らしでしたよね、」「食事とかどうされてますか?」
話題を替えたのだ。
「自炊してます。」「料理は得意じゃないけどね。節約できるから。」
既に1月も半ばとなっている。まだ正式雇用の契約を交わしていない。自分に与えられた講師たちの勤怠管理も、一部に音声読み上げソフトが対応してくれない箇所があった。プログラムに詳しい池上が、それを手直しすることになっているのだ。宏之からすれば、天敵に身をゆだねているようなものだった。この先、延々と今の状態が続くのか。それとも雇用契約自体を打ち切られてしまうのか。前門の虎、後門の狼の心境に陥っていた。


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