よしよし|ぬくもり2-23

 遥香の様子がおかしいことは、高みの見物を決め込んだ立川健一にも一目瞭然となっていた。薬物の効果が、徐々に持続しなくなってきているのだ。出勤した時間帯の彼女と、退社間際の彼女では別人に見えている。業務の話をしていても集中力に欠けて、苛立った素振りでヒステリックに憮然とするようになっていた。最近、頼みの綱のはずの総支配人が頻繁に出張することも、河野咲に追い詰められる遥香をさらに不安にさせているのだろう。咲の話では、次のサプリを買いたいと乞う遥香に、夕子は色好い返事をしていないらしい。その焦りがウエブで購入を試みた彼女を、詐欺グループの餌食にさせたのだ。かなりの金額を騙し取られたと、再三再四に渡って夕子に泣きついてきた。何もかも、新海五郎の描いたシナリオに沿っている。よしんば、運よく本物のサプリを購入できたとしても、今の遥香には全く役に立たない、単なる健康食品だった。所詮は、それが危険な薬物だったと知るだけで、サプリの魔力から逃れられるわけではなかった。
「やっと出てきたわ。」
総支配人室を辞す如月遥香を、河野咲が見て、マネージャー席の立川に囁いたのだ。潤んだ瞳からこぼれる涙を手の甲で拭って、紅潮した顔で唇を噛んでいるではないか。注視していた咲たち以外、管理部門のオフィスを足早に抜ける彼女の異変に気付いた者はなかった。
「ふふっ、もう、辞表書くしかないのよ。」
宿泊支配人が指図したと思わせる証拠を並べて、立川が宗一郎に詰め寄ったのだ。彼は驚愕の表情を浮かべ、信頼していた部下の不正に怒りをあらわにしたと言う。このまま放置すれば、総支配人自身の責任問題にも発展しかねない。如月支配人が責任をとって辞職するなら、経理の側で辻褄を合わせますとまで提案していた。佐川に脅しをかけたことも、ボディブローのように効いているに違いない。恩を着せるかのごとき経理のマネージャーに、宗一郎は媚びるような態度で、よろしく頼むと吐いたのだそうだ。
「これで、過去の不正の追及どころじゃなくなったわね。」
「ああ。」「バカじゃなきゃ、次は自分の番だと分かるだろ。」
不正に改ざんした元データは、もちろんバックアップがとってある。如月遥香を葬り去った後で、全てのデータを入れ替えれば、改ざん行為も闇の中なのだ。完璧だった。どこにも隙がない。もちろん、元のデータも安全な場所に保管してある。咲は、南田良介に目をやった。
「今夜は、可愛いワンちゃんと乾杯しようかなあ。」「とっても美味しいお酒になりそう。」
暫くして総支配人室から出てきた佐川も、彼らには憐れな子羊に見えていた。

 葵が彼女を呼び出したのは、日曜日のかるがも教室だった。何はともあれ、瑞希の気持ちを確かめなければ話にならない。本当は、二人きりで話すべきだった。だが、葵はあえて小紅螺を同席させたのだ。どうしても尋ねたいことがある。そう言われた瑞希も、大方の察しは付いていた。どう答えるべきかも、それなりに準備してきていた。
「そう…。」「そう言う人がいるのねえ。」
会社の上司、高田義信(タカダ ヨシノブ)のことを正直に話したのである。
「まだ。」「お返事はしていません。」
春の研修までの猶予もなくなっていた。高田の転勤が、急に決まってしまったのだ。来月の1日には、現地へ赴かなければならない。昨夜食事に誘われ、そう打ち明けられた。真っ先に本社からの内示を彼女に教えてくれたのだ。無論、一緒に来てほしいと懇願されていた。
「いい話じゃない。迷う必要なんてないわ。」「嫌いじゃないんでしょ?」
小紅螺は耳を疑った。まさかに、多賀宏之から遠ざけるつもりなのか。これでは、縁結びどころではない。あの時、葵がためらっていたのは、こう言うことだったのだろうか。
「私なら、絶対行っちゃうなあ!」「逃した魚は大きいもの!」
あっさりと微笑む葵に、瑞希も拍子抜けした。もっと強い言葉で、あれやこれやと打算的な自分を責められると考えていたのだ。後ろめたい想いが、そこにはあった。
「ヒロさんに遠慮なんかしてる場合じゃないでしょ。その人を逃しちゃ駄目よ。」
葵は、用件は済んだと言って席を立った。小紅螺はどうして良いか分からず、その後ろに続くしかない。だが、瑞希だけが席を立たなかった。否、立てなかったのだ。
「どうしたの?」「教室に鍵をかけるから、出てくれないかなあ。」
すすり泣く声が聞こえた。強く後ろ髪引かれる想いがあるのだ。葵はそう受け取った。
「小紅螺。」「あんたの出番だよ。」
「えっ?」
「よしよしして上げなさい。」「いいから、早く。」
そっと触れた途端、瑞希は肩を震わせた。小紅螺は、ようやく葵の本心に思い至った。
「私たちは、瑞希さんにも幸せになって欲しいんです。」
そして、思わずそう話していたのだ。小紅螺は、自分でも驚いた。
「瑞希さんのことが大好きだから。」「本当に幸せになって欲しいんです。」
将来がないかもしれない、運に見放されたような全盲の視覚障害者を、自分たちが無理やり押し付けるわけにはいかない。あくまでも、本人同士の問題なのだ。だが、この世には、それが大事なことであればあるほど自分で決められないこともある。葵は、瑞希の心の底を見極めたかった。もしも、それが本当に自分で決められないことなら、ほんの少しだけ手を貸して上げよう。初めから、そう考えていたのである。
「やっぱり、ほんとに惚れとるようじゃのう。」
「ええ。そのようですわ。」「わたくしも貰い泣き致しました。」
二人は通路で聴いていた。
「さてと、次はわしらの出番じゃのう。」
「オホホッ、おもしろくなってきましたこと。わくわくしますわ。」
美玲はそう答えながら、細やかに人を思いやる小紅螺の姿にも驚いていた。




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