リハビリ|ぬくもり2-24

 光のあふれるリハビリテーションルームは、まさに俊哉にとっては希望の光にあふれていた。三か月が経過し、ようやく本格的なリハビリが始まったのだ。ヘッドギアが外され、首には頸椎カラーがはめられていた。移動は全て車椅子だが、自力で行える行為は何もない。赤ん坊のように、他人の助力がなければ、ベッドから起き上がることも不可能だった。
「本当に。「俺は一生車椅子なのか。」
彼は、ゆっくりと体に負荷をかけていく傾斜台に寝転んでいた。
「目標は高く持ったほうがいいと思います。」
「ふん、そうだと言ってるようなもんだな。」
主に腕や足など、身体の基本的な機能回復をサポートするのが理学療法士だった。田中美佐江は、家政婦の里中妙子とも話しながら、俊哉の性格を理解し始めていた。どこまで本気で社会復帰しようと考えているのか。実際にどこまで回復するのか。この男性の鋼のような精神力は、今までの患者のケースがどれも当てはまらない。ただ、どんなに遮二無二頑張っても、車椅子がゴールであることは変わらなかった。本人も、しだいにそれを自覚しつつあるのだ。彼ならきっと、気持ちが腐ってリハビリを放棄することはないだろう。しかし、未だに現実を直視していないのは、その危険をはらんでいることでもあった。途中で挫折した患者を、彼女も多く見てきていた。心が体の機能回復に大きく左右するのは言うまでもない。やる気をなくして目標を低く下げれば、機能の回復はさらに低くなってしまうのだ。
「だいぶ腕が上がるようになりましたね。」
広岡俊一(ヒロオカ シュンイチ)は、作業療法士であった。名前の通り、患者の手や指などが、細かな作業の行えるようサポートする医療者なのだ。今、俊哉はティシューを箱から引き抜く特訓をしている。触ることはできても、つまむだけの力さえまだ指にない。それを箱から引き剥くのが目標だった。途方もなく遠いリハビリの道のりに思えていた。
「その調子です。松山さんは、集中力が高いですね。その分、回復も順調だ。」
俊哉の頭には、設計図を書いていた頃のシャープな指の動きの感覚がよぎっていた。かけ離れている。こんな調子で、あの頃のように仕事ができる体に戻るまで、いったい何年かかると言うのだ。ティシューをつまめるようになるまで一年か。ティシューを引き抜けるようになるまでもう一年か。箱が持てるようになるには。フタが外せるようになるには。両手で鼻がかめるようになることが、世界のスーパースターになるくらい、今の彼には難しい目標に思えていた。そうなのだ。自分が一生車椅子かもしれないと考えて当然だった。傾斜台のわずかな角度ですら、ややもすれば足が崩れ落ちそうになってしまうのだ。以前のように自由に歩けるようになるのには、どう少なく見積もっても二百年はかかるだろう。田所万作の判断は、いつもながらに抜かりがなかった。もしも自分が常務なら、こんなガラクタに愛娘を嫁がせておくはずがない。それに従う真帆も賢明だった。もともと自分と恋に落ちたわけではないのだ。何かの事情で見合いを断り続けてきた彼女を案じて、万作がそれとなく二人を引き合わせた。そうだったのだ。田所真帆に一目惚れして、ぜが非でも嫁さんにしたいと常務に申し出たのは彼自身だったのである。これほどあからさまに見捨てられても、離婚を承諾しないのは、今もまだ、真帆のことを心から愛しているからだった。このまま終わってなるものか。その原動力は、まさしく彼女に対する深い深い真実の愛なのであった。

 彼女は、山下順子と言う名でチェックインしていた。おかしいと感じた遥香が、万が一過去の宿泊者履歴を検索しても、新海五郎と夕子が繋がる怖れはなかった。外見も、その時の彼女は、いかにもお水の女と言う印象だったのだ。夕子と言う名も源氏名の一つでしかない。
「来週会うことにしたから。」
二人は、組織が本拠を置く関西の、歓楽街にほど近いマンションの一室にいた。
「あんじょう頼むで。」
「うふふっ、ご馳走は待ってる時が一番楽しいわ。」
夕子はそう言って、自分で火を点けた煙草を、ベッドの隣にいる彼に手渡したのだ。まるで、自らが罠にかけた獲物を、内縁の夫と共有するかのごとき光景を予感させていた。
「あの女なら、ようさん稼いでくれるやろ。」
「ええ。すぐにお店のナンバーワンでしょうね。」「金持ちの順番争いで、高値が付くわ。」
五郎は、もうその話題に興味はなかった。とうに如月遥香は自分のものと同じであるからだ。大人気サプリと見分けのつかない薬物は、警察の手の届かない場所で、大量に隠し持っている。今度は、最高級のものを与えるだろう。高額な先行投資の回収も間近だった。
「肝心のものは?」「手えに入ったんか?」
「やっとね。」
「ほんまか!?」
彼は、すぐに身を起こした。
「どこや!?」「どこにあるんや!?」
血相を変える彼を、夕子はドヤ顔で見やっていた。数年来狙ってきた山岡幸三と、あの倉本冴子の握る巨大な利権にいよいよ手が届きそうなのだ。そう、まともな仕事に就かせたはずの姪の話を聞くうち、彼女は背後に潜む巨悪に気が付いた。真の悪意は、悪意に慣れ親しんだ者にしか見抜けない。新海五郎の手の者たちが、その金の流れを調べ上げていた。既に経理のマネージャー立川健一は、彼らの手に落ちていた。最後の鍵を握る河野咲も、如月遥香を葬り去ることを条件にして、まんまと彼女が罠にかけていたのである。山岡幸三を社会から抹殺できる十分な証拠を、彼を奪われたくない咲はやはり密かに集めていた。いざともなれば、それを臭わせるつもりでいたのだろう。後生大事に隠していた証拠のファイルを、フロントの改ざんデータと共に、咲は迂闊にも南田良介に預けてしまった。それを知った立川が、良介を別の女と金で買収したのだ。夕子は、不正の証拠がどこにあるのか、何度も問いただしていた。咲は入院を前にして、自宅に保管しておくことが危険と判断したに違いない。しかしながら、なぜ大事なデータを他人に預けてしまったのか。手術を目前にした彼女が、普通の精神状態でなかったことだけは確かである。山岡に捨てられると言う恐怖が、南田良介との秘密の共有を望んだのかもしれない。否、本当はこの巨悪が、自らの入院中に暴かれることを、無意識に望んでいたのかもしれなかった。遥香も、幸三も、冴子も、立川も、そして自分自身も、消えてなくなることをどこかで望んでいるのであった。死なばもろとも、内なる魔物の、破滅的な誘いにそう心が支配されていた。
「なるほどやな、これなら完璧や。」「ふふふふっ…。」「ふあっはっはっはっはっはっ!」
悪魔王ベルゼバブの高笑いが、サプリの魔術を操る妖艶な魔女を誇らしげにさせていた。



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