ラストメッセージ|ぬくもり2-25

 ここだけ時が止まっていた。一度切り、身の回りの物を取りに戻った日の、気もそぞろで衣服や貴重品を詰め込んだ状態のままだった。否、賞味期限の切れた冷蔵庫の中身や、ポストの中の郵便物は、俊哉が事故に遭ったと聞いて、取る物も取りあえず飛び出して行った時のままなのだ。結婚を期に彼が購入した高級マンションは、真帆が戻るまで、物音一つもなく、あの時に置き去りにされていた。彼女は、窓を開いて風を入れ、おもむろに部屋の掃除を始めたのである。真新しい家具は、俊哉と共に選んだ。食器棚に並んだ皿やグラスのたぐいも、一流百貨店の外商がお奨めの物をカタログから上代の金額で購入していた。全部、離婚後に処分される段取りとなっていた。二人がここで暮らしていたことすら、真っ白に上書きされようとしていたのだ。自分は、松山俊哉の何だったのだろう。松山俊哉は、自分の何だったのだろう。彼のために、初めてハンバーグを焼いたオーブンがそこにある。彼のために、初めて珈琲を淹れた揃いのミントンがそこにある。フラッシュバックする瞬間に、俊哉と交わした会話が蘇っていた。思い浮かぶのは、どれもやさしい俊哉の笑顔に見守られていた自分の姿なのだ。どんなに忙しくて遅くなる日でも、どんなに失敗した料理でも、彼は必ず一緒に夕食をとってくれていた。真帆の料理は美味しいと褒めてくれていたのだ。
「お義母様?」
モニター画面を見て驚いた。
「お邪魔してもいいかしら?」
まさかにあとを付けてきたのか。千穂もまた、久しぶりにこのマンションを訪れた。
「へえ、やっぱりねえ。」
動転していたからである。真帆は、リビングのテーブルに、買い込んだ書籍をそのままにしていた。妊娠や出産に関する本を、義母は興味深げに手に取っていた。
「あっ、それは…。」
万事休すであった。これで、子供をおろせと厳命される。千穂に何を言っても無駄だった。自分の監視役として、疑惑の真相を報告するだけなのだ。
「今、何か月なの?」
真帆は愕然として、その場にへたり込んでしまっていた。瞳からあふれ出す涙が、わが子の命さえ守れない情けない自分と、ようやく気付いた俊哉の愛まで失くしてしまった自分を、あざわらうかのように流れ続けている。何もかもが、もはや手遅れで取り戻せなかった。

 土曜日の朝、彼は寝床でまだ夢を見ていた。とても色鮮やかな、過去の記憶を張り合わせたリアルで躍動的な夢だった。今でも、パッと目が見えるようになった映像を見て、それが現実ではないかと驚いて目を覚ますことがある。瞳の奥に刻まれた記憶は、いつも傍にいた由紀子の微笑みが見守ってくれていた。あんなに愛してくれたのだ。あんなに信じてくれていた。永遠に、ただ一人の相手と互いに誓い合った愛しい愛しい妻だった。
『ヒロ…。』
ゆっくりと語るやさしい声が聞こえた。
『起きて、私のヒロ。』
どこか遠くの空から聞こえてくるような、うっすら霞みかかった声に思えた。
「由紀子か?」
彼は、光の遮られた黒い闇の中で呟いた。
「ここにいるのか?」「由紀子、本当にここにいるのか?」
『いいえ。ここにはいないわ。』『お別れを言いにきたの。』
「別れ?」
ぬくもりを、確かにぬくもりを感じたのだ。柔らかな彼女の手のぬくもりだった。布団の上に投げ出した右手の甲を、包み込むように、そっと温めてくれている。言葉を超えた彼女の愛が伝わってきた。時を超えた由紀子の想いが伝わってきたのだ。もう、十分だから。こんなに愛してくれてありがとう。もう一度、ヒロに幸せになってもらいたい。生きている歓びを、人を愛する喜びを、私の分まで味わってほしい。そうぬくもりが伝えてくれていた。
「待て!誤解するな!」「俺は由紀子のことを!」
言い訳に聴こえていた。この余りに都合の良い夢も、身勝手な自己弁護と、懺悔の気持ちのすり替えに他ならない。断ち切りがたい瑞希への想いを、自らに正当化するために生み出したのであろう。こんな自分を知ったら、由紀子はどれほど嘆くだろうか。
『今度、生まれ変わったら、二度とヒロの傍を離れない。』『さようならヒロ。』
「待ってくれ!」「由紀子!待ってくれ由紀子!」
白い闇に変わった。目を覚ましたのだ。
「午前8時10分です。」
彼は、右手がちゃんと布団の中にあると確認した。利己的で罪深い夢に、胸苦しさを覚えた。
「嘘…だろ。」
だが、布団を撥ねのけようとした時だった。宏之は、その右手の掌が何かを握り締めていると感じたのだ。昨夜は、休日前で深酒をした。酔って以降の記憶が曖昧だった。それでも、この形状は間違いない。ずっと、彼女が失くしたことを気にしていた、彼が、就職後に初めての給料で買った、由紀子の誕生石のルビーの指輪の形状なのだ。あの手のぬくもりは、まぎれもなく、宏之の心を去らんとする彼女からの、無上の愛を込めたラストメッセージであった。ルビーは愛の象徴、自由の意味も込められている。そして、もう一つ、困難を打破する情熱と勇気だ。由紀子の愛の深さが、今、宏之の心に奇跡を起こそうとしていた。


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