サンセット|ぬくもり2-26

 二人の未来を祝福するかのような、冬空を吹き飛ばした晴天のドライブ日和であった。手持ちの時間が無くなっている高田義信が、満を持して彼女をデートに誘ったのだ。今日を逃せば、プロポーズの機会を失くしてしまう。そのことは、瑞希自身も十分に承知しているはずだった。このドライブにOKの返事を貰った段階で、一戸建ての社宅を本社に申し出ておいた。ぎりぎりで、引っ越しに間に合わせることができる。後は、互いの気持ちを確かめ合うだけなのだ。昼間はテーマパークで、恋人気分を満喫した。彼の愛車は、予め義信が検索して見付けた、絶好の求婚スポットへと真っすぐ向かったのである。
『私は、ヒロさんの人生にも、瑞希の人生にも責任が持てない。』
あの日、どうして良いか分からないと、涙の止まらない自分に葵が言ったのだ。
『だから、どうするかは、あなた自身で決めるしかないのよ。』『でも。』
よしよししてくれていた小紅螺の手も止まっていた。
『心に痛みを持つ人だけが、人の心の痛みを分かってあげられる。そう思うの。』
小紅螺も思わずうなずいていた。
『私も、かるがもの皆さんのお陰で救われました。』『自分も幸せになる資格があるんだなって。みんなと同じように笑って、みんなと同じように楽しんでもいいんだなって、そう思えるようになったんです。』『皆さん、私なんかより、もっともっとつらい思いをしてきたのに、底抜けに明るくて、お日様みたいに温かくて…。』
それきり、声を詰まらせてしまった。長い過去のトンネルが思い浮かんだのだろう。
『傷を舐めあうんじゃないのよ。傷の痛みを分かち合うの。傍にいて欲しい人とね。』
オレンジ色に染まった太陽が、水平線に着水した。もう、数分後には辺りに夕闇が訪れる。彼がBGMに選んだのは、瑞希が好きなアーティストのお気に入りのアルバムだった。彼女の好みをつぶさに心得ているのだ。これから先も、二人なら、美しい光景に目を奪われて、その感動を一緒に語り合うことができるだろう。観光名所や名画の数々も共に楽しむことができる。何より経済的に安定していて、差別や偏見によって他人に蹂躙されたり、理不尽に生活を脅かされる怖れもなかった。これ以上、思い悩む必要はない。彼も、自分の心の痛みを分かってくれているはずだった。高田義信こそが、ずっと傍にいるべき大事な人なのだ。
「松本君…。」
強く抱き締められていた。
「私と結婚して欲しい。」「絶対に、後悔させないから。」
すでに車内には闇が充満していた。彼は、目を伏せた瑞希の顔を自らに向けさせたのである。彼女の大好きなナンバーたちが、ムーディーに、彼を応援するように流れていた。
『人の幸せとかって、望んだり拒んだりしてそうなるものじゃないわ。』『視覚障害者からすれば、晴眼者はそれだけで十分幸せだもの。』『あなたが怖れているのは、幸せになることじゃない。心から愛した人に、もう二度と裏切られたくない、そう言うことじゃないの?』
最後に口にした葵の言葉だった。そして、元カリスマスーパーモデルはこう結んだのだ。
『でも、あなたならいいの?』
意味の分からない瑞希は、目の前の彼女の顔をそっと見た。
『あなたの考えが、あなたの心を裏切っても、それだけは許されるのかしら?』
核心を突くひと言に、小紅螺は息を呑んだ。意思と心は違う。葵はそう言っているのだ。
『私には、それが一番悲しい裏切りに思えてならない。』『間違ってるかしら?』
もう後戻りのできない瑞希は、葵の声を自らかき消していた。今夜は帰さない。そう囁く彼の言葉に、はっきりと、想いを振り切るようにうなずいていたのである。

 なぜ神は、悪魔を滅ぼしてしまわないのだろう。なぜ神は、天災や難病を根絶してしまわないのだろう。悲惨な事故や事件もなくならない。貧富の格差は広がる一方ではないか。それどころか、元々は同じ神を崇めていた者たちが、その神の名のもとに殺し合っている。神は、人々が恐れおののくことで、偉大なる存在を誇示することができた。悪魔がいなければ、神は必要ない。人智を超えた悲しみがなければ、誰一人、見えない神を信奉したりしなかった。 悪魔に弄ばれるさまを、天界から満足げに覗き込んでいるのだ。今夜の遥香の焦りも尋常ではなかった。サプリは三日も前から底をついている。そう夕子に訴えていた。ようやく指定されたのは、年末に女子会をした居酒屋だった。案内された個室で、何かに取り憑かれたかのごとく、彼女は約束のアンケート用紙に向かっていた。これを書けば、直接注文のできる仲介業者を紹介してくれる。事前にそう説明されていた。凸凹とした木製の机の上には、すべりの良い下敷きが置かれていた。左手で用紙を押さえながら、右手でボールペンを走らせているのだ。夕子が姿を現したのは、およそサプリメントとは関係のない項目がびっしりと用紙を埋め尽くしたアンケートを、必死に半分ほど書き終えた時だった。
「こんばんは。」「ごめんなさい。お待たせしちゃったわね。」
「あっ、いえ。」
遥香は戸惑った。正面へはバッグを置いただけで、長椅子の自分の隣に腰掛けてきたのだ。
「あら、早いわ。こんなに書いたの?」
いかにも意外そうに言いながら、それをきっかけにして、さらに自分の体をぐいぐいと寄せてきた。遥香の白い膝頭に手をかけて、すれすれまで頬を近付けてきたのだ。
「さっ、続けていいわよ。」
あたかも吐息のような、夕子の声が耳元で囁かれた。
「ねえ…。」「今度のお休みはいつなのかしら?」
四日後から三連休だった。訊かずとも知っている。正直に答える遥香にその先を予感させ、美しい顔が困惑する表情を意地悪そうに眺めて楽しんでいるのだ。
「そうなのねえ。」「じゃあ、どこかでお泊り会にしましょうか?」
これからも継続して、優先的に購入のできるサプリの仲介業者とも、その日に引き合わせてくれると言う。完全にキャスティングボードを握られている遥香に、彼女の怪しげな誘いを断れるはずもなかった。それまでの三日分のサプリを、自分の分から“繋ぎ”として渡すとも耳の奥に囁かれたのだ。もう、言われるがままだった。
「やめてっ!」
まさかの行為に驚いて、慌てて両手で留めたのだ。自分の膝に置かれていた夕子の手が、スカートの裾をめくって脚の間へ滑り込もうとしていた。数秒の攻防で、遥香の額には細かな汗が噴き出したのである。もう片方の手も、遥香の髪を撫で始めていた。
「うふふっ、可愛いお耳ねえ。柔らかそう。」
何が目的なのか。この時、はっきりと理解した。だが、遅い。遅すぎる。とっさに顔をそむける遥香の頬を、妖艶な眼差しで自分に引き寄せて頬擦りしていった。
「アンケートの続きを書いてね。」「さあ…。」
さらに熱い息を吹き掛けて体を密着させてきた。
「これはお願いじゃないのよ。」「書きなさい。」
「は…、はい。」
小刻みに指先を震わせながら、遥香の両手がアンケートへ向かった。この瞬間、支配する者とされる者との関係が定まったのだ。夕子は、それ以上は彼との本番のために自制した。
「とっても素直でいい子だわ。仕込みがいがありそう。」
河野咲の臨んだ如月遥香の生き地獄が、逃れるすべなく四日後に待っている。
「素敵なお泊り会にしましょうね。」「大好き。私の可愛い遥香。」
後半部分のアンケートも、お泊り会を濃厚にするための、常軌を逸した質問が並んでいた。




「ぬくも」便利な各タイトルリンク集はコチラ

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック