光と影|ぬくもり2-27

 結局のところ、人の物欲には節度がなくて際限もない。対価を払って買い求める物は、対価に見合うだけの満足感をそれほど長くは与えてくれないのだ。さらに高い満足感を得るために、もっと高価な物や希少価値に優れた物が次々に欲しくなる。それでも、まだ満たされない。自分一人の物欲をとことん追い求めることは、ゴールとなる山頂のない登山を続けるようなものだった。それに引き換え、心はわずかな喜びでも満たすことができる。ほんの少しの幸運や、思い掛けないひと言、小さな親切やちょっとした思いやりでも、何日も、あるいは何年も忘れられない想いを残してくれることがあるのだ。人のために何かをすることは、それ以上に心を満たしてくれるだろう。これほどせちがらい世の中で、それを行うことはたやすくはない。だからこそ、物欲では得難い大きな喜びが待っているのであった。
「お疲れ様でした。」
このところリハビリに身の入らない俊哉に、作業療法士の広岡俊一が言った。
「病室に戻る前に、少しお散歩に行きませんか?」「今日は、外も暖かですよ。」
「はん、ぜんぜん行きたくない。」
「分かりました。」「じゃあ5分だけ。」
「あっ、おい!」「行きたくないって言っただろ!」
俊一は、彼の言葉を無視して、どんどん車椅子を押し始めたのである。田中美佐江は、妙子から、今の俊哉には心の支えがない。車椅子を覚悟して、仕事復帰も夢のまた夢と判断させられているからだ。このままでは、必ずやる気を失くしてしまう。鋼のような精神力が萎えてしまう前に、リハビリへのモチベーションを高めて上げることが先決であった。
「こらっ、こんな寒い場所で風邪ひかせるつもりか!?」
「いいえ。」「松山さんにぜひ会わせたい人がいるんです。」
「だったら病室でいいだろ!?」「ふざけるな。病室へ連れて行け!」
小春日和の暖かな日差しが降り注いでいた。俊哉が連れて行かれたのは、病院の裏手に設けられた平面の駐車場だったのである。何を言っても、頑固な作業療法士はそこを動かない。さすがの俊哉も、怒りを通り越して、半ば呆れ顔で諦めるしかなかった。
「ほら、みえましたよ。」
二人の正面に、一台のセダン車が入ってきたのだ。
「ふん、誰だ。見たことない奴だ。」
もしかしたら、真帆かもしれない。淡い期待が、大きな落胆に変わっていた。
「言っとくが、俺にはどっかのオッサンと、こんなとこでおしゃべりする趣味はない。」
しかし、その落胆は、すぐに驚きへと変わっていた。運転席のドアが開いて、光り輝くチタンの車輪が、さっと車椅子マークの地面に下ろされたのだ。軽やかに乗り移った男性が、彼に電話した旧知の作業療法士と挨拶を交わし、それから俊哉の前に颯爽と滑り込んできた。
「この人かい?」
「ご無理を言って申し訳ありません。」
「かまわんよ。お安い御用さ。」「山崎です。」
松山俊哉はまさかの光景に目を丸くしていた。自ら運転するマイカーで現れた男性は、車椅子の貴公子、かるがもの代表を務める山崎菊五郎だったのだ。
「なるほど、いい面構えをしてる。」「二十年前の自分を見てるみたいだ。」
広岡俊一の狙い通り、俊哉の目から劇的にうろこが落ちた瞬間だった。

 足音の響きで、彼女の体形にもおよその想像は及んだ。玄関で名乗られはしたが、ぼそぼそと早口でつぶやいたために、一度では名字を聞き取れず、改めて訊き直したのである。引継ぎはきちんと受けていると言っていた。だが、不慣れなだけではない要領の悪さが伝わってくるのだ。時間だけが虚しく過ぎて、お願いしたことの半分もこなしては貰えなかった。
「あの…。」
思わず帰り際に問いかけたのだ。玄関で、靴を履く彼女に話しかけていた。
「瑞希さんは?」「今日は風邪でお休みですか?」
いつもと違うホームヘルパーが来るとしか連絡されていなかった。
「さあ。」「私は、まだ入ったばっかりなんでね。」
「そうなんですか。」
もしや、自分の担当を外れてしまったのではないか。不安が頭をよぎった。
「あっ、瑞希って、松本さんのことか?」
「はい。」
「今、有給休暇取ってるよ。」「引っ越しの準備じゃないかなあ。」
「えっ、引っ越し、ですか?」
「確か来月、結婚するって聞いたから。」「遠くへ行くって言ってたけどねえ。」
宏之の思考が停止している間に、型通りの挨拶をして、ヘルパーの女性はそそくさと出ていってしまった。情報は、それ以上でも、それ以下でもない。何かを想像してみても、もはやそれが無意味であることを彼は理解していた。誰といつ結婚するのか、ひと言もなくあっさりと後任に引き継いだのだ。珈琲の誘いをかわされたのも当然だった。そう言う男性がいたのなら、最初から自分の出る幕などどこにもなかったのだ。
『何のお話しだか…。』
『私のこと、陰で色々とおっしゃってるみたいだから。』
『私が、次長のことを?』『全く身に覚えがありません。』
会議室に呼ばれた彼の前には、次長と共に、冤罪の判決を見守る池上が座っていた。
『どなたからの話ですか?誤解です。』『もう一度、事実を確認して頂けませんか?』
『やっぱり、私たちが無能だと思ってるみたいね。』『残念だわ。そう言う方なのねえ。』
否、控訴の出来ない判決は既に下されていた。どこまでも狡猾な池上は、それが法廷の場で覆ることのないように、無言のプレッシャーを頼りない自分の上司にかけているのだ。
『なので、正社員の話はなくなったと思って下さい。』
それどころか、臨時雇用の延長も、30日間までと池上に冷たく言われたのだ。数日後に体験版の終了した後は、ぼうっとデスクに座っているほかはない。その屈辱に耐えることに意味を見い出せなかった。持ち込んでいた私物を紙袋に詰め込んで、入りきらない座布団などは脇にかかえてオフィスを出た。白杖を持つ手が寒さにかじかんで、バランスの悪い荷物に足がよろけた。瑞希さえいれば、瑞希の声を聴きさえすれば。それだけが、心を支えていた。
「由紀子…。」「お前のところに…いきたい。由紀子、お前のところに…。」
別れの指輪を握り締める手に、ぽたぽたと、大粒の彼の涙が落ちていた。もう十分ではないか。翔太も、きっと分かってくれるだろう。きちんと就職できたら、断られるのを覚悟で、自分の気持ちを伝えようと考えていたのである。知らぬまに、瑞希が生きる意味になっていた。彼女まで失った人生に、もはや未練はなかったのかもしれない。

 夕子が真っ赤な愛車を走らせたのは、街からはさほど遠くない湖のほとりにある料理旅館であった。彼らが定宿にしている悪事を行う際の拠点なのだ。長く入り組んだ廊下や階段を抜けて、遥香が連れて行かれたのは、広い日本庭園を眺められる最上階の特別室であった。
「綺麗なお庭でしょ。」「夜はライトアップされるのよ。」
初日の朝一番で、抜かりなく自宅まで迎えにきたのだ。今日からの三連休を、ここで過ごすと言われていた。後ろから両肩を抱いて、耳の奥に息を吹きかけるよう囁いてきた。何一つ逆らうことは許されない。支配者となった彼女の命じるがままだった。
「ほら、部屋に野天風呂もあるの。」「うふふっ、あとで一緒に入りましょうね。」
遥香はおびえた表情で、小さくうなずいて見せた。
「サプリを。」「先にサプリをお願いします。」
微妙に震えているのは、禁断症状であろうか。青白い顔の額からも、大粒の脂汗が噴き出している。四日前に渡したモノが、純度100%の、最も効果の高い薬物であったからだ。もう自分たちからは逃れられない。得意げな夕子は、彼女の頬に冷たい唇を押し当ててから、虎と竹林の描かれた襖に一人で歩み寄っていった。
「うちの人を紹介するわ。」
さーっと左右へ、仕切りの襖が開かれていった。
「あっ、とっくに顔見知りだったわね。」
雨戸の閉じられた奥の間には、小さな行灯の明りが灯されていた。凍り付く遥香の瞳に、一糸まとわぬ姿の新海五郎が飛び込んできたのだ。あの鋭い眼差しが、布団の上で自分の顔を冷たい笑みで見上げている。ヘビに睨まれたカエル。全身が、わなわなと震え出した。
「新海のご機嫌を損ねたら…。」
夕子は、遥香が歩み寄るのを待った。自ら身を差し出すのが五郎の望みだからだ。
「もうサプリは、永遠にあなたの手に入らない。」
行灯の脇に、それらしい白無地の箱が、堆く積まれている。陰湿でしたたかな内縁の妻は、切羽詰まった利発な獲物が覚悟を決めるまで、それほどの時間はかからないと踏んでいた。
「久しぶりやなあ、支配人さん。」
やはり、わずかな逡巡を見せただけで自分から五郎の前に近付いてきた。もはや、それ以外にサプリを得られる選択肢はないのだ。
「お願いです。サプリを。」「私にサプリを売って下さい。」
夕子は、震える遥香の背に回り込んで、彼の目の前まで両肩を掴んで押し、白いハーフコートの大きなボタンを後ろから一つずつはずしていった。新海五郎は、それを真下で見上げながら、すらりと長い彼女の脚に腕を伸ばして、肌の感触を確かめるように手を這わせてきたのだ。おぞましさに、今度は全身が総毛立った。
「お、お願いです。サプリを先に。」「お願いです、さ、先に…。」
その刹那、細い手首を掴んだ五郎が、一気に膝の上まで華奢な体を引き寄せたのだ。震える遥香の蒼白な顔が、卑猥な笑みを浮かべる凶悪な無頼漢を太い腕の中で見上げていた。夕子は脱がせたコートをクローゼットにかけた。それから襖を締め、挟み込むように腰を下ろしてきたのである。二人は、極上の獲物を満足げにじっくり眺めていった。
「お前しだいや。」
そう言いながら、彼は唇に顔を近付けた。
「ふふっ、遥香もちゃんと分かってるでしょ。」「自分がどうすればいいのか。」
夕子も、待ちきれない様子だった。だが、土壇場で遥香は、脂ぎった無頼漢から拒むように顔を背けたのだ。これでは興ざめだった。時間をかけた意味がない。
「おい、見せたれや。」
夕子は、彼に促されて箱からサプリを取り出した。そして、適量を手にしたのだ。五郎から背けた遥香の顔の間近で、見せびらかすようにそれを呑み込んでいった。
「私にも…下さい。」「お願い…。」
「心配いらないわ。一生分くらいそこにあるから。」
「そのサプリを。」「お願い、そのサプリを私にも…。」
「欲しいなら、彼に応えなさい。」「薬はそれからよ。」
夕子は、フタを閉じてしまった。
「ふん!」「やっと観念したんか。」
自らに顔を向けさせても、そのまま素直に従ったのだ。五郎は、上掛け布団を剥がして、ついにその上へと転がした。黒いワンピースの裾がめくれて、二本の脚の白い肌が際どい場所まで露わとなった。なまめかしい極上の姿態に生唾を呑んだ。望み通り、新海五郎は如月遥香を服従させた。こうなれば、どんな望みも彼の思いのままだった。
「今日から、わいの女や。」
スマホのカメラが向けられた。可愛い姪にも、決定的な瞬間を送る約束なのだ。
「忘れたらあかんで。」「ええな!」
「…はい。」
襖絵と同じ獰猛な虎の入れ墨が、瞳を閉じる美しい獲物に鼻息荒く覆いかぶさった。
「うふふふっ、あの子の歓ぶ顔が目に浮かぶわ。」


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