動画|ぬくもり2-28

 診察室から出てきた真帆は、待合にいる義母に微笑んだ。
「順調だそうです。」
千穂も、やさしくいたわるように彼女を迎え、安心した顔で微笑んで見せたのだ。
「バッグは、私が持つわ。ゆっくり歩きなさい。」
「はい。ありがとう。」
誰の目にも、仲の良い母と娘に見えていた。二人は、マタニティークリニックを出て、出産用品やベビー用品を取り扱う専門店へと向かったのである。その間も、千穂は細心の注意を払って、自ら店員にあれこれと尋ねながら、当面の真帆に必要な物を揃えてくれた。そればかりではない。自分は出産の経験がないからと、さらにたくさんの本や雑誌を買い込むと、本当に待ち遠しくて仕方のない様子で、真帆の隣に寄り添いながら一緒に学んでくれたのだ。どんなに心強く感じられたことか。ずっと敵だと思ってきたことが、あっと言う間に過去の記憶に変わっていた。そうなのだ。真帆の妊娠を知った義母は、激高する万作と真っ向から対決して、一歩も譲らず、お腹の子の命を必死に守ってくれたのである。自分の孫を殺す気か。人の命の重さをどう考えているのだと、毅然として言い放っていた。鳥肌の立つ、心揺さぶられる思いで聞いていた。目頭が熱くなり、気付いた時には、真帆自身も絶対に中絶なんかしないと、一緒に並んで叫んでいたのだ。生まれて初めて父に逆らった。生まれて初めて、万作に向かって自分の本心をぶつけていた。まさかの2対1に、剛腕常務も言葉を失くすしかない。捨てゼリフを残して、その日はペントハウスから出て行った。
『なら勝手にしろ!どうなっても知らんぞ!』
後で知った。千穂の足は、ずっと震えていたらしい。それでも真帆を抱き締めてくれた。もうこれで、お腹の子は大丈夫だと、わがことのように声を詰まらせながら、やさしく背中をさすってくれたのである。本当の母のようだった。その温かい腕の中で、真帆は歓びと安どの涙を流していた。これも生まれて初めての、家族のぬくもりであった。
「だけど、絶対許してもらえない。」
まだ俊哉は知らないと、真帆はそう打ち明けたのだ。
「そう…。弁護士まで。」「そうだったのね。」
千穂は聞かされていなかった。
「でも、会ってみなくちゃ分からないわ。」「お父さんになるのよ。」
暗い表情で項垂れる真帆に、義母は、病院には自分も付き添うと励ますしかなかった。千穂自身も、俊哉との離婚を容認していたのだ。今さらのこのこ出かけて、彼に合わせる顔があるはずもない。だが、これを避けては通れなかった。お腹の子の父親は、松山俊哉なのだ。
「一緒に頑張りましょ。この子のために。」
義母は、そっと真帆のお腹に手を当てていった。

 総支配人室は、管理部門のオフィスと直結していた。人の出入りも、白石宗一郎の動きも、経理のデスクから手に取るように把握できるのだ。今日は、二日前から出張していた総支配人が、朝一番でホテルに戻って、いつになく上機嫌で皆に話しかけていた。余程に嬉しいことがあったのだろう。土産のお菓子を、自らスタッフたちに配っていた。
「へえ…。」
立川は、得意げに渡された咲のスマホを、食い入るように何度も見ていた。昨日の夕方に叔母から送られてきた、動画付きの第一報であった。獲物に覆いかぶさる姿が、彼女たちの目を輝かせたのだ。あれからさらに半日以上が過ぎている。今頃は、退職願を書かされているだろう。否、まだまだそれどころではないのかもしれない。恐らく第二報は、立川にとっても永久保存版にしたくなるほどの過激なものに違いない。それだけでも商売にできそうだった。咲は、その地獄絵を想像しながら、独りほくそえまずにはいられなかった。
『手術のことは聞いた。』『お前を特別に思う気持ちに変わりはない。』
まさかに、幸三が電話をかけてきたのだ。
『こっちで待っている。治療を終えたら、顔を見せてくれ。咲に逢いたい。』
天にも昇る気持ちであった。如月遥香を葬り去ったその日の夜に、まるで奇跡のような電話を貰ったのである。絶望と憎しみに凝り固まっていた彼女の心は、同時にそのどちらの呪縛からも解き放たれていた。遥香の陰に霞んで、砂をかむようにたえ忍んできた過去さえ大事なメモリーに思えてきたのだ。乳房を失くしても、自分の座には揺るぎがない。これから先も、愛しい幸三に自分だけ愛し続けてもらえるのであった。
「上機嫌の理由が分かったぞ。」
「そう?」
「もうすぐ、サプライズ人事があるらしい。」
咲は、興味なさそうに聞き流していた。
「本部にでも行くんじゃないのか、あの人。」
見下して薄ら笑いする立川の視線の先に、いかにも嬉しそうに佐川と談笑する宗一郎の姿があった。彼女は一瞥をくれただけで、遠いリゾートの山岡幸三に思いを馳せていた。

 かるがもの教室は、いつになく重い空気に包まれていた。松本瑞希が、職場の上司と結婚を決めたと言う残念な噂話が伝わったのだ。同時に、宏之の就職がダメになったことも伝わっていた。その上、彼自身は教室に顔を出す気配がないのだ。悪いことに翔太も遠征に出かけていて、この週末は戻れなかった。まさかとは思うが、皆の頭には不吉な予感が浮かんでいた。だが、周囲が下手に騒げば、宏之をさらに追い込んでしまいかねない。縁結びプロジェクトのメンバーは、思い余って正村圭一郎に相談したのである。
「なるほど、そういうことかあ。」「私も、お似合いだと思ってたんだが…。」
「わしと美玲も、プロポーズ大作戦を企んでおったのじゃ。」
「とっても悔しいですこと。」「諦めきれませんわ。」
「ほんに女心は分からんのう。摩訶不思議な生き物じゃ。」
教室の皆の視線が、由莉に集まった。
「ん?」「だはははっ!わしも女であったわ!忘れておった!だはははっ!」
「気持ちは分かるが、こればっかりはなあ。」
他人が口をはさむことではない。皆も十分分かっているのだろう。分かっていながら、見過ごしにはできない。それが、かるがものメンバーたちだった。特に、葵は言葉も出ない。あの時の瑞希に、それなりの手ごたえを感じていたからだ。小紅螺もショックを受けていた。
「分かった。多賀さんの様子は、私が見に行くとしよう。」「だが、気になることが…。」
亀の甲より年の劫。苦労人の圭一郎の素朴な疑問に、百葉美玲の鼻がヒクヒクと動いた。


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