訪問者|ぬくもり2-29

 今が真冬だと思えないほど、春を予感させる柔らかな日差しが白いレースのカーテンを輝かせている。しんと凍てついていた室内の空気も、しだいにほんのりと温められていた。わずかな時間しか陽は当たらない。たまった洗濯物を干しておくべきだった。だが、コタツで横になって窓を見詰めたまま、虚ろな目をして身を起こそうとはしない。まるで、魂を抜かれた人形のように、彼女は今日も呆然自失となっていた。
『ごめんなさい。』『本当にごめんなさい。』
彼が予約していたホテルの駐車場で、瑞希はガタガタと震え出したのだ。否、初めて唇を重ねた時に気が付いていた。違う。この人ではない。頭でいくら受け入れようとしても、心がかたくなに唇を閉ざしていた。それでも、今夜は帰さないと言う義信の言葉にうなずいたのは、ホテルまでくれば心が諦めてくれるだろうと考えていたからだ。でも、無理だと分かった。頭の中まで、忘れようとした宏之のことでいっぱいになっていたのだ。
『送っていくから。』
彼は、背中を向けて震える彼女にそう言ってくれた。しかし、アパートへ着くまでの車内で、すまないが、自分の異動が済むまで休みを取ってくれないかと、そう運転中に前を向いたまま付け加えたのである。義信にとっては、それが最低限のプライドだったのだろう。さまざまに込み上げる不快な感情と闘いながら、怒りを押し殺したような言葉に聴こえていた。
『分かりました。』
何も語らない上司の態度が、職場の仲間たちの憶測を呼んだ。宏之の家を訪れた新人ヘルパーは、その一部を断片的に聞いて、勝手な解釈を加えて理解していたのだ。
『おやすみなさい。』
義信には申し訳ない思いでいっぱいだった。けれども、彼女の心をかき乱しているのは、上司への謝罪の気持ちではない。打算的に切り捨ててしまった宏之への、裏切りに対する後悔の念に苛まれているのだ。もう、彼のサポートはできない。二度と顔を見ることはできなかった。時を追うごとに募る恋心とは裏腹に、時を追うごとに自分が許せなくなっているのだ。万死に値する。そう自らを強く責め続けていた。
『傷を舐めあうんじゃないのよ。傷の痛みを分かち合うの。傍にいて欲しい人とね。』
葵の言葉が繰り返されている。自分は、心底愛してしまうことを怖れていた。義信となら、いつか飽きられて捨てられても、また心が壊れてしまうことはないだろう。そう自分を納得させることができた。でも、相手が宏之なら二度と立ち直れない。瑞希の心は、それほどまでに深く傷ついていたのだ。だが、葵の言う通りだった。このどうしようもない悲しみを、生涯背負い続けるであろう心の痛みを、多賀宏之なら共に分かち合ってくれたかもしれない。自分自身も、宏之の痛みなら分かち合えたかもしれなかった。
「あ、はい。」「今あけます。」
まさかの人物の突然の訪問に、瑞希はただただ驚くばかりであった。

 俄然、俊哉のリハビリは加速した。周囲の患者や療法士たちが唖然とするほど、わき目も降らず、一心不乱に取り組んだのだ。もちろん専門家がいる以上、無茶な行為はさせるはずもない。それでも、彼は寸暇を惜しんで、リハビリテーションルームに入り浸っていた。
「車、ですか?」
「ああ。さっそく自動車屋が来てたよ。」
実際に運転席を見せてもらい、どうすれば、自分も手に入れられるのか、特別な免許が必要なのか。事細かに、かるがもの山崎に、無我夢中で質問をあびせていたのだ。
「あの勢いじゃ、先に車買っちまいそうだね。」
三人は、病院の傍にある喫茶店でお茶をしていた。総合受付の脇で病棟に行くことをためらう二人を、帰宅直前の妙子が見付けて声をかけたのだ。
「すごい精神力だねえ。あんな男、見たことない。」
何があったのかは分からない。今頃になって現れたのには、それなりの理由があるのだろう。あの横柄な弁護士と一緒でないのだから、離婚を迫りにきたのでないことは容易く想像ができた。義母だと言う女性からも、思惑に駆られて身構えているような雰囲気は感じられない。むしろ、松山俊哉の驚異的な回復を、妻以上に歓んでいるように見えた。
「さあ、どうだろうねえ。」
真帆は、彼が自分をどう思っているのか、それを妙子に訊かずにはいられなかったのだ。
「あたしが代わりに答えることじゃないだろ。」
そう突き放してはみたものの、もしかしたら後悔しているのかもしれない。偶然に二人を見付けたのも、不思議なめぐり合わせに思えていた。ふん、神様は時々こんなイタズラをする。彼女は、心の中でそう呟いて笑っていた。
「うちにも、寝たきりの息子がいてね。」「もう、十五年になる。」
高校時代に、甲子園の出場を決めた三年生の夏だった。段ボールの箱には、子犬が捨てられていたのだ。学校帰りの小学生たちが、それをおもちゃにして遊んでいた。妙子の息子が通りかかった時、逃げ出した子犬が運悪く道路に飛び出してしまったのである。一瞬の出来事だった。息子は間に合うと思った。アスファルトの地面に叩きつけられた時、彼の夢や希望は何もかも奪われていたのだ。最初は日参してくれていた可愛いカノジョも、いつしか足が遠のいて、卒業後は友達が訪ねてくることも少なくなった。息子は徐々にやる気を失くして、筋力も衰え、ついには車椅子を断念するほど太ってしまった。在宅での療養が、それをさらに助長した。恐らく、自分より長くは生きられない。妙子は、そこまで話したのであった。
「ひとつだけ。」「これは、あたしの独り言だからね。」
家政婦は、そう言って微笑んだ。
「どっかで信じてるみたいなんだ。」「自分の嫁さんが戻って来るってね。」
二人は、彼女の言葉が決して無責任なものではないと理解した。


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