囮|ぬくもり2-30

 翌朝、遥香の連休最終日に二人が白石に呼び出されたのは、宴会場にある小会議室であった。何やら、予算のことで内々に確認しておきたいことがあると言う。咲はトイレを済ませてから、立川に遅れてドアをノックした。最初に見えたのは、椅子に腰掛けた彼が、蒼白な顔で背筋を伸ばしている姿だった。会議室の奥に目をやって、その意味はすぐに分かった。立川の正面の長いテーブルに、スーツ姿の男たちが険しい表情を向けて並んでいたのである。
「失礼します。」
隣に並んで座った。見覚えのある顔がいた。本部の監査役とその部下たちだ。
「このお二人は、地検の橋本さんと井上さんです。
佐川の言葉で、咲の顔も瞬く間に蒼白となった。山岡幸三の巨額の横領と背任を、地検の指揮のもとで内偵捜査してきたと言う。彼らの印刷した資料は、まぎれもなく南田良介に託した証拠の抜粋であった。言い逃れのできる余地は微塵もない。
「お前たちは。」「自分が何をしたのか分かっているのか。」
白石宗一郎の向けた厳しい視線が、山岡幸三と彼ら二人の終わりを意味していた。サプライズ人事とは、このことだったのか。共犯の容疑で事情聴取を受ける立川の足は震えていた。
「あの子が?」「良介が裏切ったの!?」
まさかに、自分が本当に幸三を破滅させてしまったのだ。咲は怒りに震えた。
「裏切ったのではない。」
宗一郎は語気を強めた。
「今のお前には、何を話しても分かるまい。」
彼女の真の顔を知った良介が、河野咲を救いたいと、自ら佐川に暴露したのだ。本気だった。本気でそう考えていたのだ。立川から受け取った金も、既に証拠として提出していた。
「佐川、呼んで来てくれ。」
あり得ない光景に、咲の体から血の気が失せた。総務のマネージャーが会議室を出て、彼女の目の前に連れ帰ったのは、正真正銘の如月遥香であった。

 スマホを構えて薄笑いする夕子の前で、五郎は彼女に覆いかぶさっていた。武装した警官隊と薬物取締官たちが、彼らを掻き分ける白石宗一郎と共に突入したのは、まさに唇を奪われる寸前であった。猛然と体当たりする宗一郎に、新海五郎の体が壁まで吹き飛んでいた。次の刹那には、迷わず彼の腕に飛び込む遥香を、力いっぱい抱き締めていたのだ。
『もう大丈夫だ。』『終わったんだ。もう悪夢は全部終わった。』
堰を切ったように泣き出す彼女の髪を、宗一郎は愛おしそうに撫でていた。あのクリスマスの晩だった。夕子も捜査対象となっていた。宿泊支配人と何度も接触した事実を、彼は地検の二人から聞かされていたのだ。やはり、危険な薬物を飲まされていた。取り調べに当たった薬物取締官は、遥香が囮捜査に協力することを条件に書類送検を見送った。怯えて不安がる彼女に、立ち会っていた宗一郎が、俺が命に代えても護ると言ってくれたのである。
『忠告したはずだ。』『如月遥香に手を出したら承知しないとな。』
手錠をはめられた新海五郎は、二人で酒を酌み交わした夜の会話を思い出していた。
『ふん!』『われが十五年も死ぬほど惚れとる女て…。』
ふてくされた夕子が、先に連れ出されていった。
『余計なお世話だ。お前の知ったことじゃない。』
料理旅館の雀荘に待機していた男たちも一網打尽にされていた。血気に逸る宗一郎を押しとどめていたのは、そこに大量のブツがあるか否かを確かめるためだった。少量を押収しても主犯として立件することは難しい。それどころか、トイレにでも流されてしまえば、それこそ元も子もなかった。遥香のハーフコートには、高性能マイクが仕込まれていたのだ。彼女は、必死の思いで、彼らに真意を悟られないよう、夕子の口から大量の薬物の存在を引き出した。そうでなければ、囮の役を続けなければならない。迫真の演技であった。絶対助けにきてくれる。あの時、彼女はそう信じて、祈るような思いで瞳を閉じたのだ。否、宗一郎は、単独でも飛び込むつもりでいた。悪鬼の生贄にさせる気など、彼には毛頭なかったのだ。

 道理で。咲は、叔母の添付してきた動画が、余りに短かったことを思い返していた。恐らく、夕子自身も撮影するだけではいられなくなったのだろう。そう理解していた。山岡が帰国するまでの時間稼ぎのために、咲とのメールのやりとりを傍受していた捜査官が、数時間後に送ったのだ。宗一郎の度重なる出張は、関係者との綿密な打ち合わせのためだった。
「本当にあの方のことを思うなら。」「あなたが止めるべきでした。」
敗者となった咲は、強烈な怨念の宿る目でじっと見上げている。背筋が寒くなるほどの憎悪も剥き出しにした凄まじい殺気を帯びた目付きだった。だが、今の遥香はひるまない。白石宗一郎が、凛とした眼差しで見守ってくれているからだ。
「私なら、必ずそうしたと思います。」
宿泊部門を除いて、他のセクションは、多かれ少なかれ不正に関与させられていた。幸三から強要されていなかったのは、如月遥香とその部下たちだけなのだ。先日、宗一郎はついにその事実を彼女に伝えた。受け止め切れずに総支配人室を飛び出す遥香を、彼と佐川は胸の潰れる思いで見送るしかなかったのだ。
「南田君が、河野さんのために、心を鬼にしたようにね。」
今頃、本部に呼び戻された山岡幸三の事情聴取が始まっているだろう。倉本冴子の関係先にも、一斉捜索が行われているはずだった。どちらの逮捕も時間の問題である。この世に、悪の栄えたためしはないのだ。白石宗一郎の闘いも終わっていた。
「はあーっ!太陽が眩しいわーっl」
日光を浴びて、両手を広げた遥香が、屋上に誘った佐川の前で声を上げたのだ。
「本当ですねえ。今日は春の陽気です。」
彼も又、愛する女性を護り抜くことができた。
「ねえ。」「一つ、質問があるんだけど。」
「は?」「改まってなんでしょうか?」
ほんのり紅く頬を染めて問い掛けた彼女に、佐川は微笑みながらうなずいた。
「ええ。その通りです。」「嘘みたいでしょ。」
「やっぱり。」「うふふっ、あいつは、やっぱり普通じゃないわ。」
「はい。」「白石宗一郎ほどの男性は、そう簡単に見付かりません。」
遥香は、もう一度太陽に向かって、嬉しそうに両手を広げていった。



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