奇跡|ぬくもり2-31

 晴天の空の下、風のない穏やかな日の昼前だった。ひんやりとはしているが、さほどの寒さは感じない。駐車場に車を停めて、二人は、予定の時間より少し早めに場内に入った。
「ここにしようか。長椅子だから背もたれはないよ。」
「分かりました。」
圭一郎は、彼に椅子を触らせた。視覚障害者に安心感を与えて、初めての場所で座らせる時の基本なのだ。いきなり肩や腕を掴んで、強引に座らせようとしてはならない。
「今日は晴れて良かった。観戦日和だ。」
「ええ。そうですね。」
宏之は、そう答えながら、やや離れたところに大勢の観客がいることを感じていた。
「おにぎりでも持ってくれば良かったなあ。ここで食ったらうまそうだ。」
翔太が初スタメンで出場する試合だと説明されていた。宏之は、ピッチに来るのも初めてなのだ。彼らは、あの日のことを忘れ去ったかのごとくに肩を並べていた。

 白髪の紳士が宏之の自宅を訪ねたのは、縁結びプロジェクトのメンバーに相談を受けたその日の夕方であった。冷たい小雨の中で、折り畳みの傘を広げて玄関の前に立ったのだ。チャイムを鳴らした。だが、返事がない。もしやと思って、ドアノブに手をかけてみた。
『なあ、いるのかい?』『多賀さん、正村だ。』
鍵はかけられていなかった。
『勝手に上がらせてもらうよ。』
寒々とした台所や居間に彼の姿はない。中途半端に雨戸の開いた1階にはいなかった。嫌な予感に囚われる圭一郎の背中を、冷たい汗が流れた。
『多賀さん!どこだ!?』『いるなら返事をしてくれ!』
慌てて2階へ駆け上がっていた。階段の途中まで、濃いアルコール臭が立ち込めている。冷え切った寝室の片隅で、薄着のまま横たわる彼を見付けたのだ。ウイスキーの空瓶が数本転がっていた。つまみや弁当のたぐいが見当たらない。まさかに宏之独りで飲み干したのか。最後のひと瓶が横倒しとなって、こぼれたウイスキーで床一面がびしょ濡れとなっていた。
『多賀さん!』
圭一郎は呼吸と脈を確かめた。まだ、生きている。救急車が到着するまでの時間が、彼には途方もなく長いものに感じられていた。幸い、命に別状はなかった。だが、いつから飲み始めたのか、本人の記憶も曖昧なのだ。あのまま放置していたら、間違いなく凍死していただろう。圭一郎は、人の世の憐れを思わずにはいられなかった。
『ご迷惑をかけました。』
翔太にだけは言わないで欲しい。それが、目覚めた後に、病室のベッドで点滴を受ける宏之の続けた力のない言葉だった。
『もちろん、かるがものみんなにも言わないよ。』『心配させるだけだからな。』
多くの哀しみを見てきた。多くの悲しみを聞いて来た。障害者は、障害者であると言うだけで十分に苦しんでいる。その上に、人間として生きるつらさが待っているのだ。自然、心が受ける衝撃も、健常者の倍以上となる。知らぬ間に酒浸りとなっていた宏之の想いは、察するに余りあるものがあった。
『野暮なことを言うつもりはないが。』
それでも、圭一郎はあえてそれを口にしていた。
『彼女の本心を、自分の耳で確かめなくていいのかな。』
障害者にとって唯一の希望は、諦めない心であるからだ。
『私なら、そう思う。』『一生、確かめる勇気のなかった自分を、後悔したくないからね。』

 どうしてもスタンドで観戦したい試合だと聞かされていた。仕事に復帰した瑞希に、百葉美玲がガイドヘルプを依頼したのだ。あの日、アパートに現れたのも、かるがもの教室に届いた年賀状の住所で探したサポーターと彼女だった。美玲は、率直に瑞希の真意を確かめたのだ。何があったのかも、丁寧に耳を傾けた。それでも、瑞希は、彼と逢うことを固辞した。自分は、宏之を裏切った。もう二度と、彼に逢うことはできないと、そう言い張ったのである。これほど真剣に想い合っている二人が、あのまま別れてしまって良いはずがない。全てを知った縁結びプロジェクトのメンバーは、ついにあの大作戦の決行を高らかに宣言した。
「あっ!」
そのスタンドを埋め尽くしていたのは、かるがものメンバーと、彩音たち三人組だった。
「瑞希ちゃんこんにちは!」
「こんにちは松本さん!」
皆が、今まで通りそれぞれに明るく迎えてくれた。そして、瑞希の瞳には、ピッチの真ん中に置かれた長椅子に腰掛ける宏之と圭一郎の姿が飛び込んだのだ。
「美玲さん!?」
「ホーホホホホッ!さあ、役者は揃いましたわ!」「由莉さーん!」
「だははははっ!」
大きな声が響いた。場内アナウンス用のマイクを画伯たちが握っているのだ。
「御来場の皆様、菊川由莉ちゃんどぇーす!」「総合プロデューサーどぇーす!」
スタンドからも大きな拍手がわき起こった。
「ただ今より、プロポーズ大作戦を開催します!」
翔太であった。何が起きたのか分からない宏之は、戸惑うばかりであった。
「美玲さん、こんなのいや!帰らせて下さい!」
「ホーホホホホッ!ダメですわ。まだ何も始まっていませんもの!」
翔太と圭一郎が事の次第を説明して、彼の正面に瑞希がいることを告げたのである。
「無理です!」「ごめんなさい、帰ります!」
瑞希は独りで席を立った。これだけのメンバーがいれば、美玲の帰宅のことは案ずるに及ばない。こんなやり方で見世物にされるなど、たえられる話ではなかった。悔しさと、情けなさと、宏之への想いを辱められた気持ちでいっぱいとなった。もう、この場を逃げ出すことしか考えられなくなっていたのである。だが、その言葉はスタンドで大きくこだました。
「愛してる!」
彼の叫びが、瑞希の胸に突き刺さった。
「愛してるんだ!」「瑞希さんを愛してる!」
スタンドから走り去ろうとする彼女の足が、ぴたりとその場で止まっていた。
「傍にいてほしいんだ。」「幸せにして上げることは、できないかもしれないけど。」
「傍にいてほしいんだ。」「俺にできること、精一杯に頑張るから。」
「どこにも行かないでくれ。」「瑞希さんがいなきゃダメなんだ。」「君を愛してる。」
本当は、心の奥底で望んできたものが、今の宏之の飾らない言葉の中にすべてあった。本気で愛されたかったのだ。本気で必要とされたかった。ずっと求めていたのは、愛する人が傍にいて、ささやかな暮らしでも、二人で作る温かな家庭だった。
「瑞希さん、ヒロさんが…。」
小紅螺であった。白杖を頼りに、瑞希がいるはずのスタンドに向かって独りで歩き出しているのだ。圭一郎もサポートしない。翔太も由莉も黙って見守っていた。
「あなたが声をかけてやらなきゃ、ヒロさん、迷子になってしまうわ。」
最期はやはり葵だった。ピッチの上で、方向を見失う彼が、真っすぐベンチの方角へ向かっていた。ためらう瑞希の視線の先で、宏之の体が座席の間につんのめった。崩れ落ちる体の胸のポケットから、あのルビーの指輪が飛び出したのだ。まともに転がるはずはない。だが、それは、一直線に松本瑞希のいる場所を目指していた。まるで、奇跡のように。
「多賀さん待って!」「私が行きます!」「私がそこへ行きます!」
素早くスタンドを駆け下りていた。まっしぐらに、宏之の元に走り寄ったのだ。
「どこにも行かない!」「私も!」「私も、多賀さんに傍にいてほしい!」
もう、瑞希は迷わなかった。立ち上がる彼の胸に顔を埋めたのである。
「あなたを…。」「多賀さんを、愛しています。」
誰一人として、声を上げる者はなかった。その場の全員が、目頭と胸の奥を熱くしていた。思わず翔太の肩を抱く圭一郎もだ。美玲の瞳からも、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
「だははははっ!」「ようやくわしらの出番じゃのう!彩音、京奈、果歩、今じゃあ!」
「はーい!」
先端を掴んだ三人が駈け走る。スタンドの右端から、全員の頭の上に巨大な横断幕が広げられていった。そこには、メンバーたちの書いた“末永くお幸せに!”の大きな文字と、画伯の描いた“白い翼の天使”の絵があった。そして、その天使は、とっても温かそうなハートのマークに頬を寄せていた。勇気と情熱をもたらした指輪の行方は分からない。もしかしたら、最初から存在していなかったのだろうか。彼の元を去った由紀子だけが、その本当の答えを知っていた。


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