夫婦|ぬくもり2-32

 のちに思えば、道は一つしかない。紆余曲折を経て、無数のターニングポイントを越えてきていても、今に繋がる選択肢をその度ごとに受け入れてきたのだ。受け入れてきたというのは、それが自らの意思に反している場合もッ少なくはないからだった。それでも、その選択肢が正しかったか否かは別として、結果的に現在まで敷かれた道はただ一つなのである。もしもどこかで、違う選択肢を受け入れていたなら、人生は大きく変わっていたのかもしれない。だが、誰一人それを確かめることができなかった。もう一つの、自分の別の人生と比較して、後悔することも、ホッと胸を撫で下ろすこともできなかったのである。つまりは、一つしかなかった自分の道を否定すべきではないのだ。同様に、この先に待つ道も、自らが行き付くべき場所に繋がっている一本道だと信じるべきであった。五年後、十年後ののちに思えば、やはり道は一つであったと、そのことに気付かされるだろう。
「俺の親父は、小さい工務店を田舎でやってるんだ。」
唐突な話の切り出し方には少し慣れてきた。妙子は、彼が何か語りたいのだと理解した。
「そうなのかい。」
「いつ潰れてもおかしくない。」「月末になると、毎回おふくろと口喧嘩してた。」
「お金の苦労だね。」
「ふん、金策に走り回って、元請けの連中にへいこら頭さげて、何とか生きてた。」
ようやくピンときた。なぜ設計士になったのか。自分のルーツを話そうとしているのかもしれない。車椅子の貴公子と会うことができた理由を知って、それ以来、色気のない家政婦に対する態度が明らかに違ってきていた。
「誓ったんだ。こいつらを使う側になってやろうってな。」
「なるほど。それで設計士の先生に?」
「ああ。」「天下を取ったつもりでいた。現場の連中も、下請けの奴らも俺には逆らえない。ゼネコンの設計士ってのは、業界じゃ恐いものなしなんだ。」
「へえー、若いのに偉い人だったんだねえ。」
それきり黙ってしまった。松山俊哉のサクセスストーリーは、残念ながらそこまでだからだ。妙子は、彼が心のリハビリを始めたと受け取った。自らの過去を振り返ることは、前向きな心の整理には欠かせない。自分が何者だったのか。すがり付くのではなくて、未来を闇雲に恐れないようにきちんと精査しておく必要があるのだ。もしかしたらそこに、これからの自分を支えられる自分が存在しているかもしれない。失ったものばかりに執着するのではなく、残されているものに光明を見い出すべきであった。

 二人は、自らと闘う俊哉の姿を、妙子に案内されたリハビリテーションルームの受付から、彼に気付かれないようこっそり見ていた。いきなり厚顔を決め込んで病室を訪れても、今の彼の心の有様とはかけ離れている。例え、それが子供騙しにしか思えなくても、わずかに半歩を事前に踏み込んでおくことが肝要だと妙子に諭されたのだ。本当だった。本当に驚異的な早さでリハビリをこなしているのだ。真帆は、自分が恥ずかしくなった。否、今の自分がどうすべきなのか、黙々と続ける俊哉が教えてくれたのである。一旦、病室へ戻る彼を見送って、それから心の準備をしていった。千穂もまた、生まれてくるお腹の子が、いつの日か、松山俊哉を父に持ったことを、誇りに思うであろうと予感させられていた。
「あんたに逢いたいって人が訪ねてきてる。」「入ってもらってかまわないかい?」
わざわざ面会者の仲介をしたのだ。彼には、妙子の意図するところがすぐに分かった。
「はん!」「どこのどなた様か知らないが、おととい来やがれって伝えてやってくれ!」
この日がくるのをどんなに願ってきたことか。家政婦は、言葉の裏にそれを見た。それでなくとも、プライドの塊のような男なのだ。素直に再会を喜べるはずもない。
「なるほど。」「じゃあ、あたしが追い返してもいいんだね?」
もう心得ていた。妙子に一役買って欲しいのだ。
「あっ、待て!」「慌てるな!」
仕切りのカーテンで、彼女はわざとらしく振り返った。
「伝言かい?」「ねちねちと恨み言でも並べてみるかい?」
俊哉は、やはり鼻で笑った。
「俺を誰だと思ってんだ。」「そんなに小さな人間じゃない。見損なうな。」
「ははっ、そうだったねえ。」「じゃあ、上から目線で、怒鳴り散らすってのはどうだい?」
「くだらんことを言うな。そう言う話じゃない。」
「へえーっ、どう言う話なんだい?」
「忘れた。昨日までのことは、全部忘れた。言いたいことも忘れて、何も思い出せない。」
今度は、妙子が鼻で笑った。そして、聞こえよがしに声を張ったのだ。
「あはははっ、忘れちまったんじゃあしょうがないねえ!」
「ああ。記憶喪失の俺でいいなら、逢ってやってもかまわない。そう伝えてやってくれ。」
「つまり…。」「覚えてないことにゴチャゴチャ謝るな。そう言うことなんだね?」
「ふん!記憶喪失だからな。」
慟哭する真帆の声が聴こえた。俊哉の目も赤く染まっていく。妙子にいざなわれて、身重の妻はようやくカーテンの中に足を踏み入れたのである。もう、言葉は要らなかった。寄り添い合う二人は。今、初めてまことの夫婦としてのスタートラインに立ったのだ。
「ほんとにいい男だねえ。惚れ惚れするよ。」
家政婦は、カーテンの外で、口元を押さえて泣く千穂にそう呟いて笑った。


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