片想い|ぬくもり2-33

 白い闇の中で目を覚ました。春眠、暁を覚えず。この季節は、暖かいベッドの中からも離れがたい。彼は、いつも通りにピラミッドの頭をこついて、もう朝とは言えない時間であることを知った。休前日の昨夜は、眠りに就いたのが遅かったのだ。宏之は、手すりを伝って階段を下りていった。だが、そこから先は以前の通りではなかった。美味しそうな卵焼きのにおいが漂っている。トントンと軽快に何かをきざむまな板の音がしていた。
「お早う。」
「あっ、ヒロさん、お早う。」
台所には、少し遅めの朝食を支度している瑞希の声が待っていた。
「丁度いいタイミング。今、ご飯が炊けたところなの。」
「お腹空いたあ!」
「待って。すぐに、お味噌汁温めるから。」
だが、そう簡単には朝ごはんとならなかった。
「あ…。
そっと背中から抱き締めてきたのだ。
「ヒロさん…。」
振り向かせた瑞希に、彼は顔を近付けて行った。昨夜もあんなに愛し合ったのに、宏之は全く自分を止められない。しだいに瑞希も夢中となっていた。
「ちょっとだけ2階へ行かないか?」
「え、あ、もう…。」
やや困惑した声を出してはいるが、彼女も無論まんざらではないのだ。今夜は、翔太が帰ってくる。その分の前倒しだった。もう一度、宏之は、丁寧に彼女をその気にさせていった。
「ちょっとだけ?」
「うん、ちょっとだけ。」
とろけそうに甘い、二人の新婚生活が始まっていた。やはり、瑞希は天使なのだろうか。捨てる神あれば拾う神あり。宏之は、営業マン時代の得意先に乞われて、ある中堅企業のスーパーバイザーとなっていた。もちろん、正社員での終身雇用だ。彼が白杖で通勤しているのを見かけた社長が、何か困ったことがあれば連絡してくれと、改めて名刺を手渡されていたのである。長年培ってきた多賀宏之の知識と経験は、見えなくなった今も変わらずにいた。差別と偏見さえなければ、その卓越したスキルこそ、後進たちの指導に活かされるべきなのだ。水を得た魚の如く、彼の指導力はいかんなく発揮され、瞬く間に会社の業績アップにつながっていた。否、二人にとっての朗報はそれだけではない。多賀翔太の名が全国に知れ渡るに連れて、由紀子の両親とのわだかまりも薄らいでいた。彼がこつこつと返済していた誠意も通じて、ついには全額を自分たちで負担したいと申し出があったのだ。可愛い孫のために、そうさせてくれと言われ、彼は、返済に充てていた分を息子の名義で貯蓄することで同意した。今日は、いくよのために建てたお墓に、午後から二人で墓参りに行く約束なのだ。だが、予定はずれ込んでいく。彼らがようやく朝食を食べたのは、その午後になった頃であった。

 二人は、あの屋台のおでん屋にいた。大事な話があると、宗一郎に誘われたのだ。それが赤ちょうちんでなければ、遥香は胸をときめかせていただろう。否、少なくとも誘われた瞬間は、もしかしたらと妄想を膨らませていた。やっぱり、これが現実の上司と部下の距離感なのだ。そう何度も、サプライズが待っているはずもない。彼女の胸は瞬く間にしぼんでいた。
「ええ、やっと南田君も会えたみたいです。」
「ほんまに惚れてるみたいや。」
「手術も無事に終えましたし、ホルモン療法だから、体の負担も軽くて済みます。」
ホテルは、大幅な人事の刷新が行われていた。管理の部門は元通り統合され、あの佐川徹が、支配人代行と言う立場で責任者となっていた。南田良介は配置替えとなって、今は婚礼予約の販売促進係として、貸衣装店の営むブライダルエージェント回りを担当している。厳しい現場で額に汗して働くことが、宗一郎の与えたやり直しの第一歩であった。
「すごーい、キレイ!」
屋台を出た後は、真っすぐここに向かっていた。
「素敵!」
夜桜の小路を歩いていた。満開となった遅咲きの桜が、華やかにライトアップされているのだ。ここでの飲食が禁止されているお陰で、泥酔したサラリーマンの乱痴気騒ぎに会話を邪魔されることもない。ほろ酔い加減の遥香は、咲き誇る花々を楽しそうに見上げていた。
「あっ、大事な話って何でした?」
まだ、頬をなでる夜の風が冷たかった。
「山岡の、後始末を頼まれた。」
「え?」
「例のリゾートの話だ。」
彼女の胸に、さまざまな想いが複雑に込み上げた。
「そうなんですか。」
「本部は強硬だ。断るのは難しい。」
何を言おうとしているのか。遥香は、既に彼の想いを察していた。もう、互いの気持ちが、手に取るように分かるのだ。自分が、山岡を敬愛していたことも、その山岡からプロポーズされて、共にホテルを開業させるのを夢見ていたことも、恐らくは全て承知しているのだろう。彼自身が、その山岡の不正を暴いて、むごい事実を彼女に突きつけたのである。今度は自分がやるから、一緒に来てくれなどと、口が裂けても言えるような男性ではなかった。又も、自らの想いを伝えぬまま、如月遥香の元を去るつもりなのだ。宗一郎が用意している今夜の言葉は、間違いなく長い別離を告げるものだろう。二人の恋は、ようやく咲いたこの遅咲きの桜のように、間もなく散ってしまおうとしていた。
「五年、いや、十年はかかるだろう。」
彼は、目を合わそうとはしなかった。自らにそれを言い聞かせているのだ。遥香は黙って聴いている。二人は桜の小路を抜け、人通りのない橋のたもとまできて、月明りに揺れる川の水面を見下ろしていた。早くも、ひらひらと風に舞った花びらが流れている。
「今月の末には、現地へ発つ。」
すでに、数えるほどの日にちしかない。彼女の瞳が涙でいっぱいとなった。
「どうして…。」
月を見上げた。涙がこぼれ落ちそうだからだ。
「どうして、口説いてくれないんですか?」「今なら、イチコロかもしれないのに。」
初めて如月遥香を見たのは、十五年も前だった。宗一郎は、新人の彼女の笑顔に胸を撃ち抜かれてしまったのだ。それ以来、寝ても覚めても女性は如月遥香しか思い浮かばない。熱く激しく燃えるような想いを、ずっと切ない胸の内に秘めてきていた。
「ははっ、十五年も惚れてる女にふられたくない。」「片想いのままで行かせてくれ。」
遥香の胸に、愛おしさがあふれ出した。自分は、たしかに白石宗一郎を愛している。そして、彼に愛されていることが、この上もなく誇らしく感じられていた。否、何よりもまず、宗一郎のいない明日など考えられない。彼のいない人生が、もはや冬枯れした桜にしか思えなかったのだ。心は、とうに決まっていた。心は、それを彼女にためらわせたりしなかった。
「行かせません。」
手の平を彼の背中に添えて、涙の伝う頬を寄せていた。
「片想いのままでなんか、絶対に行かせません。」
「如月…。」
「あなたが好き。」「白石宗一郎と生きていきたい。」
月明りを、流れる雲が覆い隠してくれた。求めていた口付けは、すぐに大人のものへと変わっていたのである。二人は、きっと永遠に離れない。来世も、必ずめぐり逢うだろう。運命の人と結ばれた歓びが、如月遥香を、真実の愛のぬくもりで満たしてくれていた。



「ぬくもり」シーズン2 了

ご愛読頂き有難うございました。今回を持ちまして、華麗なるピアサポーター如月遥香のお話は終了となります。宏之と瑞希もめでたしめでたしで、かるがもには新たな騒動が…。松山俊哉の、本当の物語も始まります。そして、あるボランティアが、ある場所で、ある物語を始めるのでした。「ぬくもり」シーズン3も、引き続きよろしくお願い申し上げます。では、その時まで。 多賀翔太&神崎彩音より、愛をこめて。


「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/445628267
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック