冬の日|ぬくもり3-1

シーズン3

 真冬の白竜浜(ハクリュウハマ)は閑散としていた。夏には、眩い砂浜を、足の踏み立て場もないほど大勢の海水浴客が埋め尽くす。正月明けの連休を過ぎた今は、散策に訪れる観光客もまばらだった。心の中でそう叫んでしまうほど真っ白な浜辺が、夕陽を臨む西の海に向けてひらけている。潜堤(センテイ)の沈められた緩やかな浅瀬がミルキーブルーに輝いていた。往時は新婚旅行のメッカとして、駅に電車が着くたび、ハネムーンのカップルが押しかけていたのである。その後も、好景気の社員旅行などに支えられ、バブルが崩壊するまでは客足が途絶えることはなかった。しかし、健全な町づくりを目指した行政が、地域から風俗営業を一掃してしまったこともあって、バブル後は観光客が激減して急速に衰退し、廉価販売を余儀なくされたホテル群は体力を失くして二束三文で外資に買いたたかれてしまったのだ。金融機関からだぶついた金を融資され、派手な増築や改装に明け暮れていた旅館や民宿も軒並み潰れていった。成金たちの別荘や企業の保養所も売りに出され、一気にゴーストタウンと化していたのだ。老舗の旅館、沖むらが生き残ったのは、一にも二にも女将の美崎奈津美(ミサキ ナツミ)が従業員と苦楽を共にし、バブルの時代にも、先代の教えを守って地道な経営に徹してきたからである。皆は、暇な時間でDIYの腕を磨いていた。部分的な建物の修繕や備品の補修なら、材料費さえあればほとんどが自前で済ませることができるのだ。板長の親戚の多くが漁師だったために、新鮮な魚介類を安価に仕入れることもできた。まさに、従業員が家族のように、沖むらを精一杯に盛り立ててきてくれていた。
「女将さん、森山です。」
まだ大学に通い始めたばかりの渚(ナギサ)が障子を開けた。廊下で正座していた板長の森山靖(モリヤマ ヤスシ)を、母の奈津美が戻った部屋に招き入れたのだ。
「心配をかけました。ごく軽い脳梗塞だそうです。」
ゆっくりと布団から起き上がる奈津美が言った。
「えっ!?」「病院にいなくて大丈夫なんですか?」
今夜、大事な団体客の予約があるからだ。彼はそう思った。毎年恒例の慰安旅行に沖むらを選んでくれているのは、そこの社長が奈津美の大ファンだからであった。女将にとっては外せない。彼女が宴席に顔を出さないわけにはいかなかったのだ。
「心配いらないわ。あたしが傍で見てるから。」
ボーイッシュな美崎渚は、煌めく瞳でそう言って、この上もなく可愛い笑みを浮かべて見せた。奈津美とは同年代の彼さえ、時に目を奪われる。彼女は沖むらのアイドルであった。

 冬将軍のくり出す強い寒風が、温泉街のはずれにある古い診療所の看板を揺らしていた。浦島医院は、高齢の院長が三年前に引退して以降、有志の医師たちのボランティアによって運営されている。沖むらのある温泉街は、人口の減少にも悩まされていた。平成の市町村合併で、隣の自治体には大きな総合病院ができたのだ。だが、この町からは遠い。少ない本数の路線バスで駅まで向かい、降りた駅からも、さらに別の路線バスへ乗り継がなければならない。足腰の悪い高齢者には、気軽に受診のできる施設ではなかった。
「じゃあ、お薬、いつも通りに出しときます。」
「ありがとうね。」
この町に住みついている旅館の仲居たちは、大半が後期高齢者なのだ。若い頃にはちやほやされて浮名を流した彼女たちも、今はお迎えがくるのをただ待つだけの、細々とした慎ましい日々を過ごしていた。仲居に限らず、あちこちに持病をかかえる年寄りたちには、この診療所の存在が命綱だった。中でも、まだ30代の柳生康介(ヤギュウ コウスケ)の診察日は、まるで歌舞伎役者に群がる高齢女子会のように、狭い院内が老いた女性たちであふれ返っていた。
「はーい、岡田さん、どうぞ。」
若い女性看護師の木村碧(キムラ ミドリ)も、ボランティアであった。
「岡田さんこんにちは。足の具合はどうですか?」
「先生の顔見ると調子いいみたい。」
「はははっ、口も相変わらず元気だ。」
だが、ボランティアの医師たちが減ってきているのだ。患者が想像するよりもはるかに、大病院の勤務医たちは多忙であった。開業医であれば、受け持てる曜日が限られてくる。当初は高い志に賛同していても、時が経つにつれ、無償の奉仕活動はモチベーションも下がってしまう。気が付けば、休みのほとんどを、彼はこの診療所で過ごしていた。

 故郷へ向かう特急列車は、県境のトンネルを抜けて、ウミガメが産卵に訪れる砂浜を眼下に長い海岸線をひた走っている。生まれ育った地元を離れ、都会で暮らす叔父夫婦の元に身を寄せてから、早くも10年の時が流れていた。高校2年の夏以来、友達にも親戚にも全く会ってはいない。懐かしさも、高鳴る思いもなかった。二度目の母の危急を聞かなければ、自らこの電車に乗ることも絶対になかったはずなのだ。
『お嬢―っ!』
『お父さんが!』『お父さんが中に!』
紅蓮の炎が、魔王のごとくに燃え盛っていた。今も、あの時の恐怖が彼女の脳裏から離れない。否、時が経てば経つほど、自らの犯した罪の重さに苛まれていた。死ねないから生きている。生きているから、自分を許すことができずに苦しむのだ。
『おやっさん無理だ!』
『もう手遅れです!』
『放せ!社長が!』『放せーっ!社長がーっ!』
必死に飛び込もうとする森山を、板場の若いし二人が体を張って押しとどめていた。
『お父さんーッ!』『いやあああーっ!』
如何なる言葉で大げさに表現すれば、この憂いに沈んだ美しさにふさわしいのであろう。妹の渚が、異性の目を奪う自由奔放な可愛らしさであれば、彼女は神々の心まで独り占めにするほどの清楚で可憐な美しさであった。だが、近付く故郷に、父を殺してしまった美崎凪乃(ミサキ ナギノの心は押しつぶされそうになっていた。良く晴れた、ある冬の日の午後のことだった。今再び、封印されていた白竜浜の悲劇が、彼女を呑み込もうとしていたのである。



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