仲間|ぬくもり3-3

 実際に折りたたむことは不可能でも、厚さ1mmのボール紙を22回連続で折るとしたら、一体どれほどの分厚さになると想像されるであろう。1回で厚さが2mm、2回で厚さが4mm、次が8mm、16mm、32mmといった具合である。暗算であれば10回位までなら掛け算に問題はない。しかし、その後は大きく異なってくるのだ。驚くなかれ、ボール紙の厚さは、22回目で富士山の高さを越えてしまうのであった。これは、良く人類の進歩を表す際に歴史の授業などで使われる。いわゆる紀元前は、数万年にも渡って原始的な営みを続けてきた私たちの祖先が、ある時期を境に文明を興し、近代に至っては世界がインターネットで繋がって、有人探査機を火星に送り込む計画までもが具体化しているのだ。つまるところは積み重ねだった。最初の一歩を踏み出す時は遥か彼方の目標に思えていても、その頼りない一歩を踏み出さない限りは永遠に目標にたどり着くことはない。昨日と今日はかわらなくとも、確実に努力は積み重ねられ、どこかで必ず大きな結果となって返ってくるのであった。
「そうか。そいつはおもしろい。」
俊哉は、隣のマシンで筋トレしている大田健介(オオタ ケンスケ)の言葉にうなずいた。
「だろ?」「松山さんもやってみな。」
「俺も大田さんに言われてやってみたんだ。」
さらにその隣にいる西川靖男(ニシカワ ヤスオ)が声をかけてきた。
「ああ。さっそく試してみよう。」
このリハビリテーションルームで知り合った仲間たちだ。それぞれ、損傷の状態や回復の度合いによってこなすメニューは違っているが、目指しているところは皆が寸分も変わらなかった。誰もが、わずかでも元通りの自分に近づけたいのだ。その意味においては、目標もさることながら、同じ境遇で苦しむ者の存在は大きな心の支えとなってくれる。負けてはいられない。そう考えることも、身をもって得た有益な情報を交換し合えることも有り難かった。
「あいつ、また見てるだけだ。」
「見物してて楽しいのか。」
大田の言葉に、西川が応じた。
「ふん、やる気のない奴はほっとけ。」
松山俊哉は、あれからたったの2か月で、まさかにティシューを引き抜いてみせたのである。同程度の損傷を受けた者なら、半年以上かかっていてもおかしくはない。作業療法士の広岡俊一が、思わず感嘆の声を上げていた。さらに10か月を過ぎた年明けからは、腕力をつけるための筋トレに、本腰を入れて取り組んでいるのだ。執念のリハビリを続ける彼から見れば、ここまで連れてこられて、日向ぼっこしている若者のことなど眼中になかった。佐々木敦夫(ササキ アツオ)と言う名前らしい。それ以外は、何の情報も持っていなかった。
「どうせ一生車椅子、そう思ってんだろ。」
大田は気になるのか、もう一段掘り下げていった。
「何かのスポーツ選手だったらしい。」
この病院の駐車場には、既に改造された松山俊哉の自家用車が停められている。気が早いと言うよりは、猪突猛進するタイプの、気長に我慢できない性格の男なのだ。車椅子の貴公子に出会ってすぐに、付き合いの長いディーラーを呼んで事の次第を説明した。無論、個々の状態に合わせてオーダーメイドの改造を行う業者も探させたのである。条件等の指定を受ければ、新たに特殊な免許を取り直す必要はない。その車を自在に扱えることが公的に確認できたなら、その日から以前の通りに公道を同じ免許で走れるのであった。
『松山…真哉(シンヤ)か。』
『どう?』『ダメ?』
彼は、もう一度頭の中で繰り返してみた。
『いいじゃないか。松山真哉。』
『本当に?』
『真帆と俺の大事な息子だ。』『意思の強い子になりそうな気がする。』
『強くて、やさしい子がいいわ。』
『ああ、そうだな。強くて、やさしい子がいいな。』
『うん。』
祖父となった万作の許しは、未だに得られていない。出産後も、唯一人の孫の顔すら、絶対に見にこようとはしなかったのだ。自らの意思に背いた真帆を拒絶しているのか。それとも、松山俊哉の血が流れていることを疎ましく思っているのか。どれほど千穂が誘っても、真帆の暮らすマンションを訪れることはなかった。もう、俊哉は、元上司としての田所万作を達観していた。世俗の我欲にまみれなければ、人間の本性を窺い知ることはそれほど難しくはない。事故後の彼にとって、政敵をとことん追い落としてきた剛腕常務も、自分の家族とどう向き合えば良いのか分からない孤独なお爺ちゃんでしかなかった。そう。今の俊哉は、自らの過酷な運命を受け入れている。一生が車椅子の生活であるなら、その最高峰を目指したい。あの車椅子の貴公子と交わした会話が、彼に目を開かせたのであった。
『慌てなくていい。』『誰でも、自分の運命を受け入れるのに五年はかかる。』
『あんたは?』『山崎さん自身は、どうだったんだ?』
『ふふふっ、俺はせっかちでね。五年も呑気に待ってられなかった。』
運命の出会いを果たした二人は、二人にしか分からない不敵な笑みを浮かべ合った。
『あんたを、山崎菊五郎って男を越えてみたくなった。』
『そうなのかい。』『楽しみにしてるよ。』
もしかしたら、これから先が本当の自分の人生であるのかもしれない。俊哉は、この時そう思った。山崎菊五郎が障害者団体の代表を務めているように、自らにも何か、この不自由な体で成し遂げるべきことがありそうな気がしたのだ。本物だけが、人の心を動かせる。車椅子の貴公子との出会いは、それほどまでに衝撃的なものであった。



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