父|ぬくもり3-5

 人間の赤ちゃんだけが、集団の中で守られることを前提にして生まれてくる。あの驚くほど未熟で生まれるジャイアントパンダの赤ちゃんですら、生後すぐに自ら親の乳首を探して頬張ることができるのだ。10か月以上も母親の胎内で育まれていながら、人の子は抱き上げてもらわなければ自ら授乳することもできない。これは母親の両腕を塞いで無防備とさせる行為であって、互いの身の安全が常に確保できる集団生活の中でしか成り立たなかった。集団とは、家族や一族、部族などを指し、幼子はその多様な環境の中で、本能以外の、生存に必要な知恵や知識をゆっくりと大量に身に着けていくのだ。ここまで自己防衛のための身体機能を疎かにして生まれてくるのは、やはり母体での生育の重点が脳の発達に置かれているからであろう。脳の発達こそが、知的好奇心をもたらしてくれる。その知的好奇心こそが、理性と知性の源泉となって、自らが所属する集団の中で、ある一定の役割が果たせる成熟した存在へと人間を成長させてくれるのであった。
「お母様、ありがとうございました。」
真帆は心の中で、義理の母の義の字を取っていた。
「あら、もう起きたの?」「もっと、ゆっくり寝ていていいのに。」
「はい、でも十分休めましたから。」
千穂は、本当の母のように、彼女と真哉の世話を、毎日かいがいしくみてくれている。真帆も実の娘のように、遠慮なく千穂の好意に甘えさせてもらっていた。
「さっきね、シンちゃんが私に声を出して笑ったの。」「ほんとに可愛いわ。」
「そうですか。この子、お母様のことが大好きみたいです。」
何故、こんなにも可愛いのだろう。千穂は、自分でも戸惑っていた。万作の孫だからだろうか。血の繋がりなど超越していた。この先に残された自らの人生で、共に過ごせる時間がとても短いから、さらに愛おしく感じるのかもしれない。小さい小さい手や足で、せいいっぱいに生きてい要る。千穂自身も、生まれて初めての、思いも寄らぬ母性愛に目覚めていた。
「私はね。」「自分の子供は、いらないってそう思ってたの。」
真帆は思い出した。かなり前の話になるが、万作から聞かされたことがある。自分の子ができたら、真帆の母親には永遠になれない。そう言って、妊娠を拒み続けてきたのだと言う。当時は、不妊をごまかそうとする言い訳か、何かのおためごかしに違いないと受け止めていた。本当だったのだ。本当に、自分の母親になろうとしてくれていたのである。
「でも今は。」「シンちゃんが、この世に生まれてきてくれて幸せ。」
「お母様…。」
「赤ちゃんて、こんなに可愛いのねえ。目の中に入れても痛くないって、本当だったわ。」
真帆は、ベビーベッドで微笑む千穂の隣に並んだ。
「あの、お母さんって。」「そう呼んでもいいですか?」
千穂は、込み上げるものをぐっとこらえて、目一杯明るく声を上げた。
「あはっ、私にも本当の娘と孫が、いっぺんにできちゃったみたい!」
子は鎹(カスタイ)。無垢な真哉の誕生が、二人の真の絆となった。

 白竜浜に来ていた。ずっと、この白い砂浜と、水平線までの海を見て育ってきたのだ。凪乃にとっては、当たり前のように広がっていたあの頃の風景であった。
『いいんだよ。』『凪乃は、凪乃の生きたいように生きなさい。』
長い浜辺を囲む堤の上に腰掛けて、父の敬一(ケイイチ)と二人で、波打ち際でたわむれる幼い渚を眺めていた。日課の散歩に、珍しく彼が娘たちを連れ出したのだ。
『旅館は、誰かに任せればいいから。お前も、渚も、沖むらに縛られてもらいたくない。』
大切なのは自分の夢を持つことだと、将来の進路に悩み始めた凪乃にそう話してくれたのであった。亡き祖父母から受け継いだ老舗旅館を、母の奈津美と力を合わせて守り抜いてきたのだ。その言葉に込められた娘たちへの深い愛が、凪乃の心を大きく揺さぶっていた。
『この町は古い。』『時代から、どんどん取り残されている。』『伝統なんかじゃない。いろんなものに恵まれていたから、学ぶことも、変化を受け入れることもしてこなかったんだ。』『この浜も、温泉も、サファリパークも、みんな宝の持ち腐れになってる。お前のような若い子たちが、夢を持てる場所ではなくなってしまった。』『みんな、明日のことが考えられない。今日、どう1円でも多く設けるかしか、頭にないんだ。残念だがな。』
誰よりも、この白竜浜への想いが強い。父の言葉は、心の叫びに聴こえていた。もしかしたらあの時、自分はこの町に残ろうかと考え始めたのかもしれない。凪乃は、そう思い返していた。あの夏の日がなければ、きっとそうしていただろう。あの夏の日さえなければきっと…。
「お姉ちゃん、みんな揃ったみたい!」
現実の自分に引き戻されていた。
「ありがとう!」
光あふれる障子に囲まれた沖むらの大広間は、本館の三階にあって、大舞台の前に真っ青な畳百畳ほどが敷き詰められていた。今日は、電話番以外の全ての従業員が集められたのだ。女将の奈津美が倒れて以降、この先がどうなってしまうのか、誰もが気を揉んでいたのである。まさかに、女子大生の渚が若女将になるはずもない。如何に沖むらの結束が固くても、要となる女将なしではそれも怪しく思えてくるからだ。長女の凪乃が帰って来たと聞いて、皆の胸にはそれぞれに込み上げるものがあった。正面の左脇には、板長の森下と、仲居頭を務める板垣初美(イタガキ ハツミ)が、すでに感無量の面持ちで、10年ぶりの再会を心待ちにしている。フロントマネージャーの石垣以下、その他の従業員たちも上座に向かって並んで座っていた。最後尾には、板場の若いし、水谷茂(ミズタニ シゲル)と小川直之(オガワ ナオユキ)が、その隣には、昨年の春に高校を出て仲居になったばかりの若い澤田麗奈(サワダ レナ)と山本茜(ヤマモト アカネ)が、さまざまな噂に聞く美しい若女将の登場を、興味津々といった表情で、ニヤニヤと意味ありげに横目で顔を見合わせながら待ち構えていた。
「お嬢さん!」
襖が開いた瞬間に、仲居頭の初美はそう涙声を上げていた。板場では鬼の如く厳しい森下の目も、たちまち真っ赤となっていた。大広間のそこかしこで、皆が嗚咽を始めたのである。しかし、先に入ってきた渚の姿を、若い4人だけは特別な眼差しでじっと眺めていた。その目に、この世のものとは思えぬほど美しい、あでやかな和服姿の美崎凪乃が飛び込んできたのだ。まさに彼らには、自らの目を疑うほど、鮮烈な驚きと密かな興奮を覚える対面劇であった。寂れた田舎の温泉街には、地元で暮らす者たちが夢中になれる娯楽が何もない。風俗もないこの町では、毎夜に繰り広げられる秘めごとだけが、老若男女を問わず、唯一無二の大きな関心事なのだ。それは、あの夏の日を知らない沖むらの若い従業員にとっても同じであった。




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