情け|ぬくもり3-6

 あなたは、想像できるだろうか。全身から、筋肉のなくなっていく自分を。ペンが握れない、茶碗や箸が持てない。小さな段差すら越えられなくなってしまうのだ。遠位型ミオパチーは、劣勢遺伝であった。両親の双方から受け継がなければ発現しない。彼女の場合も、健常者である父と母が、たまたま同じ染色体に異変を持っていた。これは、人口の比率から考えれば、まさしく天文学的な数字の確率と言える。この病気も同じく、難病と言う名前で、製薬会社から見捨てられてきた。進行すれば車椅子の生活となり、最後は寝たきりとなって、人工呼吸器で命を繋ぐことになるかもしれない。だが、まだ若い小紅螺にとっては、遠く感じる未来のことより、今、目の前にある恋の悩みのほうが、遥かに大きな問題に思えていた。
『彼、あなたとお話しするときだけ、声のトーンが変わりますのよ。ご存知?』
あの言葉が、彼女を魔法にかけていた。
「湯加減は、どう?」
さり気なく、母が安全を確かめてくれたのだ。
「あっ、はい。」「丁度いいかな。」
浴槽には、介護用の椅子が沈められていた。以前は、お湯に浸からず、シャワーだけで済ませていた時期もある。だが、ある日、彼女の病気を詳しく知らない友人から、入浴剤のお土産をもらったのがきっかけとなった。前向きな今の気持ちも後押ししてくれたのだ。気持ちだけでも運命に負けてはいられない。小紅螺は、日常生活でも、失った自分を取り戻していた。
『ははっ、そんな人いませんよ。』
本当なのだろうか。彼は、自分のことをどう捉えているのだろう。たしかに、女の子受けする甘いマスクなのである。素敵なステディがいても、なんの不思議もなかった。否、カノジョなんかいないと言うほうが、不自然にさえ思えてくる。ひょっとしたら名うてのジゴロで、ボランティアに携わっているのも、正体を隠す目的で仮面を被った姿なのかもしれない。
『年上の女性も素敵だと思います。』
あのセリフは、かるがもメンバーへの単なるリップサービスなのか。それとも、心に浮かんだ実在の年上の女性がいたのであろうか。
「あったまった?」「着替え置いとくからね。」
「ありがとう。」
恋に不慣れな小紅螺の心は、波打つように揺れていた。あることないことが頭に浮かんで、最後はいつも荒唐無稽な妄想にまで発展してしまう。小野寺友則の名を想うだけで、妙な
歯車が回り出す。これが、切ない恋の始まりであることを、彼女はまだ知らなかった。

 国家資格である作業療法士の略称はOT(occupational therapist)だ。厚生労働大臣の交付する免許を得て、リハビリテーションのための作業療法を行う医療従事者のことである。患者の主治医の指示に基づいて、主に手先を使う工作や手芸などの作業で機能回復をはかるのだ。同時に自信を失くした精神状態もサポートし、社会的適応能力を高めて、実社会で生活できるよう導くことを目的としていた。
『ご自分がやりたいこと、それが一番の近道です。』
広岡俊一は、そう言って笑った。
『趣味や嗜好なんかで、本気になれそうなことを思い描いて挑戦しましょう。』
なるほど、意外に妙案だ。俊哉はそう思った。やりたくもないことを次々に押し付けられても、皆は臥薪嘗胆するどころか、恐らくは気鬱な心の負担にしかならない。積極的に取り組むと言う姿勢には、いつまで経っても近付かないであろう。だが、目的が自分の好みに関わるとなれば、俄然その意欲は異なってくる。酒やタバコなど、我慢を強いられているものならなおさらであった。個々の障害の状態が違うのだから、それぞれに合った回復の方法もあるはずなのだ。邪道に思えるやり方でも、着実に目的を遂げることが肝要だったのである。
「これでどうだ?」
大田は、缶ジュースのプルトップを開けるための道具を作ろうとしていた。そう。本当に飲みたいのはジュースなどではない。目的は、缶ビールの蓋を開けることだった。必要は、発明の母と言う。どんなにダメだと言われても、強い邪念からは逃れられない。それが、機能回復への原動力となるのであった。いわんやヘビースモーカーの西川も、こっそりライターの点火を練習している。患者としては不合格でも、人間としては非常に逞しい連中だった。
「毎日毎日、ただぼうっと見てるだけだ。」
又も、大田が佐々木敦夫を見て言った。
「生きる屍ってやつか。」「魂を抜かれたみたいだな。」
「あいつが気になるのか。」
俊哉が、珍しくそう問いかけた。
「まあな。」「どうでもいいんだが、ちょっとな。」
「プロバスケットの選手だったらしい。
仕入れた情報を、西川が得意げに語った。
「デビュー戦で、見事にダンク決めたまでは良かったが、相手チームの選手に着地の足をすくわれたそうだ。」「最悪の体勢で、頭から床に落ちたみたいだ。」
三人は、暫く言葉を発しなかった。俊哉も、落下した瞬間の恐怖と衝撃が、まだ生々しく記憶と体に刻まれている。それが蘇ったのだ。一生、忘れる事はないのかもしれない。自分自身の心の傷とも、このままずっと闘い続けなければいけないのかもしれなかった。
「馬を水辺に連れてくることはできても、飲ませることはできないからな。」
大田は、なおも彼を話題にした。
「ふん!喉が渇いてないんだろ。」「それとも、こんな水、飲みたくないかだ。」
心だけは、この場で鍛えることができない。今まで、どう生きてきたかが問題だった。事故前の彼なら、一笑に付して終わっていたであろう。だが、最愛の息子が生まれたからなのか。心のどこかに変化が生じていたのである。情けは、人のためならず。いつか、誰かが、真哉のために力を貸してくれる時がくるのかもしれない。そんな想いが頭をよぎっていた。




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