助手席|ぬくもり3-7

 夜空には、満天の星が煌めいていた。まさに、今にも降ってきそうなほど、そのまたたきが間近なものに感じられている。助手席の木村碧は、白竜駅までのわずかな時間が、その日のボランティアに対するご褒美だと考えていた。診察を終えた柳生康介が、彼の車で駅まで送ってくれるのだ。二人の間には何もない。一方的に、彼女が想いを寄せているだけだった。
「ご苦労さん。気を付けてな。」
「はい。ありがとうございます。」「先生こそ、飲み過ぎないように。」
碧の気持ちを、彼はある程度理解していた。無論、それを利用しているつもりはない。否、彼女以外にも、数人の看護師たちがボランティアとして参加してくれていた。
「ははっ、了解。」
気立ての良い、明るい性格の子だった。外見も十人並み以上で、服装のセンスも悪くはない。康介がその気にさえなれば、幸福と言う名のゴールがすぐそこに待っていることだろう。それは、木村碧に限ったことではないのだ。彼の勤める総合病院でも、思わせぶりなアプローチをしてくる女性は若い看護師たちばかりではなかった。高飛車なバツイチの女医も例外ではない。柳生康介が、地元の資産家でその病院の経営者、現院長の跡取り息子でもあるからだ。
「おやすみ!」
「おやすみなさい。」
女性経験も、彼の年齢相応にはあった。その度、結婚の話が出なかったわけではないのだ。しかし、何かが足りなかった。どうしても、愛しているという言葉が空々しく感じられてしまう。自分が命懸けで守るべき相手がどこか他にいる。そんな気持ちを振り払うことができなかったのである。雲を掴むような、曖昧模糊とした想いは年々強くなるばかりであった。
「こんばんは。」
「あっ、先生いらっしゃい!」
のれん下の脇に置かれた蛍光灯の看板には、小料理“島”と書かれていた。康介がこの町で借りている古い集合住宅の1階部分が、白竜浜に近い小さな飲み屋街なのだ。総合病院の勤務は、至近な実家からかよっている。だが、連休の時など、ボランティアで泊まり込みの場合は、やはり夕食時の酒と肴が楽しみだった。
「生ビールでいいかい?」
年齢は50代であろうか。独りで店を切り盛りするのが、女将の島野香織(シマノ カオリ)であった。小料理屋と看板を上げてはいるが、ホワイトボードに手書きされたメニューは家庭料理ばかりなのだ。値段も、カウンター席に並ぶ男たちの安月給で手が届く範囲だった。小上がりに座った客が、料理の皿や飲み物をどんどん自分たちで運んでいる。その雑然とした、何でもありの雰囲気が、康介には束の間の癒しとなってくれるのであった。
「永井さん、こんばんは。」「お隣、構いませんか?」
自称、永井譲二(ナガイ ジョウジ)。どこかの宿泊施設で働いていると言う。だが、島に集まる常連たちは、全員がそれを疑っていた。誰の目にも、彼の発するオーラが、ただの素人には思えなかったのだ。平然と譲二の隣に腰掛けるのは、柳生康介の一人切りだった。

 小野寺友則は、自ら運転手を買って出た。顧客の一軒から、苦情の電話が入ったのだ。彼の担当エリアではなかった。だが、苦情を発生させた担当者が、今日は家族旅行で遠出していたのである。彼女だけで行かせるには忍びなかった。すでに時間も遅く、それが、かなり横柄な印象の独り暮らしの男性宅だったからだ。偶然、残業していた友則が電話を取った。さんざん怒鳴られた挙句に、責任者が謝りに来いとなったのだ。苦情処理で相手の自宅を訪ねる場合は、必ず複数名で対応することになっている。だが現実には、今夜のケースのように事業所チーフが単独で行うことも多かった。苦情は、こちらの事情に合わせてはくれないのだ。彼が一緒に行くと言い張った時、気のせいか、南条正美の顔が華やいで見えた。
「何とか収まって良かったです。」
帰りの車内で、彼がほっとして呟いた。
「小野寺君が一緒で助かったわ。」
サービス業に、苦情は付き物だ。しかし、苦情の絶えない事業者ほど、それを降ってわいた災難の如くに、身内ではバッサリ切って捨てている。それどころか、大抵の場合は客の非を陰であげつらい、下種な表現を用いて、聞くにたえない比喩で貶めていたりするのだ。彼らには、真の自戒も反省もない。平身低頭、面倒なクレーマーの前だけ恭順の姿勢に終始して、その裏では、何らの改善も徹底も為されないのが当たり前となっていた。
「あの方のお怒りは当然でした。」
「ええそうね。ほんとに困った問題だわ。」
事業所チーフにとっての苦情処理は、これからが本番だった。顧客を怒らせた担当者が、どの程度まで自らの過失を認めることができるのか。あるいは憮然として自己弁護しかしないのか。まずは、そこが大きな分かれ目だった。誰でも、自らの言動にそれなりの自信と確信を持っている。良かれと思ってやったことならなおさら心外であろう。さらに言えば、一人の担当者に起こった事案は、他の担当者でも起こり得る。当事者ではない彼らに、問題の本質を共有させて、事業所全体で再発防止に努めることが一番難しい問題であった。
「このまま、自宅まで送りましょうか?」
助手席の正美が、とても疲れているように見えたのだ。
「あっ、え?」「ああ、そうしたいけど、まだ仕事が残ってるの。」
「そうですか。」「分かりました。じゃあ、会社に戻ります。」
「でも、お腹空いたわ。」「何か食べましょうか。付き合ってくれる?」
願ってもない誘いに、彼の脈が一気に上がった。
「はい!もちろんです!」
二人きりでの食事が、初めてなのだ。安いチェーンのラーメン屋でも、友則には初デートの如くに感じられていた。どこにしようか。何を食べようか。そんな会話から盛り上がっていった。自分が彼女の笑顔を独占している。これほど貴重で、贅沢に思える時間はなかった。
「とっても美味しかったわ。ここにして正解だったね。」
「そうですね。」「なんかすみません。ご馳走様でした。」
人間の心理とは不思議だった。
「私も、その小紅螺って子に、一度会ってみたいかも。」
ずっと、彼がかるがも教室の話をしていたのだ。小紅螺の名前が何度も出てきた。
「あっ、はい。ぜひ!」
それが、予期せぬ嫉妬の感情であると、正美は気付いていた。とても優秀で、大事な部下だったはずの小野寺友則が、突然に、七つ年下の可愛い異性に見えていたのだ。否、違う。そうではない。可愛い自分の部下が、大事な異性に変わって見えていたのである。そう、彼女は混乱していた。知らない女性に、自分の宝物を横取りされてしまいそうな、未知の脅迫観念にも囚われていたのだ。乗り込んだ助手席で、正美は二人の間の距離を測り直していった。




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