源泉|ぬくもり3-8

 真哉を抱いた真帆が、親友の知世を連れて来ていた。梨田知世が病院を訪れるのは、事故直後の、まだ集中治療室に彼が横たわっていた時以来であった。うろたえる真帆を、彼女は気丈に励まし続けてくれたのだ。二人が出会ったのは中学時代の部活動だった。吹奏楽部で、共に管楽器を得意として仲良く演奏していたのだ。互いが互いのアルバムであるかのように、青春の涙と笑顔の全てを、心の内にしっかりとどめていた。
「良かったね。ほんとに良かったね。」
親友が目を赤くするのを見て、真帆も涙ぐんでいた。
「心配をかけて申し訳ない。」「真帆も世話になったみたいだな。」
「いえいえ、私は何も。」
あのコンサートの日、茫然自失となっていた真帆の姿が頭に浮かんだ。中村大樹からは、自分も逢って話がしたい。楽屋に訪ねてくるのではなくて、どこか適当な場所を設定してくれないかとまで言われていた。知世は、他人に相談できずに悩んだ。自分は、神ではない。親友の人生を勝手に弄んで良いはずがなかった。だが、悪魔にならなれる。後からどんなに恨まれても、俊哉と別れるべきではないと、そう最後に判断したのだ。たった一人の、掛け替えのない友のために、彼女は悪魔の契約書に自らサインしたのであった。
「嘘でしょ、佐々木君なの?」
知世が車椅子を押していた。リハビリする俊哉を見学するために、真帆たち母子と一緒に、リハビリテーションルームまで彼を連れてきたのだ。彼女が入口でそう呟いたのは、窓際で独り日向ぼっこする佐々木敦夫の姿を見た時である。
「あいつを知ってるのか?」
「え、ええ。」
たしかに、実家で暮らす弟の友達だった。プロバスケの選手になったところまでは、何となく聞かされた記憶がある。だが、何がどうしたと言うのだ。とっさに理解ができなかった。
「ふん!」「俺と妙な縁があるらしいな。」
俊哉は、真帆に抱かれた真哉に目をやっていた。
「知り合いなら、ほっとくわけにもいかないか。」
「どういう意味ですか?」
知世は、彼の説明にいちいちうなずいた。高校時代の佐々木敦夫が、どれほど期待されて活躍していたか思い出したのだ。生きる屍となっていても仕方なかった。絶望の淵に沈んで、もはや呼吸すら困難なのであろう。挨拶に行った彼女に気付くと、近寄るなとばかりに顔を背けて、完全に無視してしまったのである。知世は、残念そうに戻ってきた。
「明るくて素直な子だったのに…。」
「そんな奴ほど、いざとなると脆いもんさ。」
俊哉は、そう言って、自らのリハビリを始めたのであった。

 白竜町ホテル旅館連絡会の定例会が、ホテル白竜の宴会場で、そのホテルの社長、堀田卓郎(ホッタ タクロウ)を議長として始まった。彼がこの会の創設者で、“白竜の夜のドン”とまで揶揄されるほど、夜の街では有名な男なのだ。見てくれは大きな古狸の如くだった。聞こえて来るホテルの評判もすこぶる悪い、その隣で、顧問と称して今回から特別参加しているのが、白竜温泉にある三つの源泉を独占している白竜温泉社の社長、海野正孝(ウンノ マサタカ)であった。労せずして得る潤沢な資金で、多方面に観光事業を展開し、地元経済の大半を牛耳っている。彼ら二人には、大きな共通点があった。近隣の町でも知らない者がないほど、無類の60代好色コンビとして、その悪名を地元にはせていたのである。
「それでは、えーと次に、延ばしていた懇親会ですが。」
出席者たちは内心で驚いていた。突然に、新年の飲み会が一泊二日の旅行に変更されたのだ。だが、あえて議長に異を唱える者はなかった。堀田卓郎と海野正孝の考えが、余りに見え透いているからだ。外資から異業種の企業が買い取ったホテル群には、古来からの伝統を受け継ぐまともな女将など存在しない。この連絡会に顔を出す女性と言えば、殆どが民宿の、老いた経営者たちだった。息を呑むほど美しい沖むらの若女将を、色魔の二人が黙って見ているはずもない。参加すれば、凪乃がどんな目に遭わされるかは彼らもすぐに想像できた。これまでの旅行でも、何度か怪しい場面に遭遇し、比較的若い女性会員が寄り付かなくなっているのだ。
「では、全会一致ということで、いいですかな?」
「あの。」「私は、その、まだ旅行とかは…。」
「奈津美さんが倒れたから、先延ばしにしてきたんだ。」「言ってる意味、分かるよな?」
いきなり泊りの酒宴と言われ、戸惑いとためらいを見せる初参加の彼女に、上から目線の堀田卓郎が威圧的に言った。
「沖むらさんが行くのは当然だよ。」「あんたの、新人若女将の歓迎会も兼ねてるからね。郷に入れば郷に従えってことだよ。この町で、みんなと生きてくつもりならね。」
他に選択肢のない温泉地で、それは生殺与奪の権と言ってもいい。源泉と言う切り札を握る海野正孝が、薄ら笑いを浮かべて念を押したのだ。皆が、凪乃の過去を知っている。あの惨劇の晩に、噂の美少女の身に本当は何が起きていたのか。酒席で話題にのぼるたび、ずっと妄想をかきたてられてきた。その美少女が、この世のものとは思えぬ美しさで帰ってきたのだ。謎めいて神秘的な美崎凪乃の全てを、おのが手で解き明かさずにはいられない。海野はどんな手を使ってでも、自分のものにせずにはいられなかった。全身が脂ぎった堀田卓郎は、痘痕で覆われた赤ら顔の海野正孝の言いなりなのだ。彼自身も、しつこく母の奈津美に言い寄っていた。海野がこの娘を我が物にすれば、いずれは自分も母に手が届くだろう。その先には、ミス白竜浜に選ばれた女子大生の渚も用意されているのだ。諸手を上げて協力するのが必然だった。彼らの辞書には、理性と我慢、正義と善意の言葉がないのだ。
「分かり…ました。」「私も参加させて頂きます。」
凪乃一人が、何も知らない。海野と堀田は、心の中ですでに祝杯を上げていた。白竜温泉社の経営する宿での泊りなら、心得ている従業員たちが、その手のやばいお膳立てを全てしてくれる。参加が決定であれば、もはや何の苦もなく、海野正孝の手に落ちたも同然だった。
「意義ありーっ!」
後々の造反を認めない目的で、出席者の全会一致が、連絡会の譲れない大原則としてきたのだ。まさかの声に、皆が一斉に末席の彼に顔を向けていた。
「はーい、大いに意義ありーっ!」
大きな声で堂々と言い放つ男性を、この時、初めて凪乃はその美しい瞳で見たのであった。




「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック