新たなグラス|ぬくもり3-11

 恋なんて、しょせんお酒のようなもの。グラスに注いだ時から、あの夢現の覚めてしまうまでのほんのひと時のたわむれ。酔うほどに酒に浸れば、後には二日酔いのしっぺ返しが待っている。もう二度とこんな思いはしたくない。その度に、皆が心に誓うだろう。でも、また少し経てば、逃れ難い魔力に誘われて、誰もが胸弾ませながら別のグラスに手を伸ばす。
「お先に。」
「お疲れ様でした。」
南条正美は、今夜も彼が残業するつもりだと思った。否、そうして欲しいと思ったのだ。
「小野寺君、お先に失礼するね。」
「はい、大野さんお疲れ様でした。」
二度と燃えるような恋なんてできない。夫の浮気が原因で離婚して以来、彼女はひたすらに仕事とだけ向き合ってきた。隙の無いオーラで、周りの男性たちを尻込みさせてきたのだ。全盲の愛娘と一緒に、実家で穏やかな日々が過ごせればいいと考えてきた。まさかに、七つも年下の、しかも自分が育てた部下に強く惹かれるなど、驚天動地の出来事だった。
「チーフ、珈琲でも淹れましょうか?」
それでも、あの晩の嫉妬は本物だった。彼には似合いであろう二つ年下だと言う若い娘が、とても迷惑で、邪魔な存在に思えてしまったのである。会ってみたいだなどと、心にもないことを動揺して口走っていた。その子に会ったところで、自分がピエロになるだけではないか。すごく素敵なお嬢さんだねと、彼の背中を押してしまうかもしれない。そんな自分は見たくなかった。道化師の自分を、小野寺友則の前で演じたいはずがなかった。
「チーフ?」
「何?」「あっ、珈琲?」「そ、そうね。お願いするわ。」
だが、よしんば彼にも、ほんのわずかにその気があったとして、この先の自分たちに何が待っているのであろう。社内恋愛であることも、バツイチのシングルマザーであることも、そして、娘が視覚障害者であることも、越えなければならない壁が多過ぎた。理性的に現実を直視すれば、成り立つ話ではない。冷静な、大人の女性としての適切な判断が必要だった。
「あっ、雨だ。」
外は、本降りになりそうな雨だった。
「駅まで送ってきます。」
「いいわ。タクシー拾うから。」
「ははっ、遠慮はやめて下さい。」
彼の傘まで差し出されていた。事業所裏の駐車場に向かう二人の、微妙に触れる肩が、正美の胸をときめかせたのだ。車内は冷え切っていた。しかし、彼女は、どんどん上気していく自分の鵜なじを感じていたのである。彼の車で送ってもらえば、駅までは10分もかからない。あっと言う間に、今夜もまたさよならだった。切ない想いが込み上げてくる。ある考えに囚われたその胸は、密かに早鐘を打っていた。
「もうこんな時間なのね。」「お…、小野寺君も。」「お腹空いてない?」
「え?」
「美味しいハンバーグレストラン見付けたの。」「ちょっと遠いけど。」
どんなに鈍感で女性経験のない男でも、今の彼女の誘いが、上司としての言葉なのか、素朴な疑問を感じずにはいられないだろう。小野寺友則の胸も早鐘を打った。
「あ、やっぱり、今度みんなで…がいいね。」
「いえ、今から行きましょう!」「場所、教えて下さい!」
新たなグラスに手を伸ばした正美は、その言葉に、うっすら頬を染めて答えていった。

 自分のせいだと、凪乃はそう思った。まだ幼かった妹の心に、大きな傷跡を残してしまっていたのだ。渚は、頑なに異性を拒むようになっていた。それどころか、自らが女性として見られることも嫌うようになり、沖むらの男性従業員ですら、ごく限られた者としか会話しなくなっていたのである。外見もボーイッシュなものにこだわっていた。母の奈津美の話では、特定の同性に対して、時おり、ただならぬ関心を示すことまであると言う。もしかしたら…。そう付け加えた母の言葉に、彼女はさらに気を重くして病院を後にした。
「こちらでお待ち下さい。」
白竜警察は、数年前に小高い丘の上へと移築されていた。長年、白竜浜へ連なる主要道路の玄関口で睨みをきかせてきたのだが、漁港に隣接した立地であったために、未曽有の大災害に備えて町役場と一緒に引っ越したのだ。やむを得ない対策とは言え、町の治安は悪くなった。夜間になれば、暴走族や飲酒運転の車が横行する。宿泊施設では、UGと思しき輩が増えて、夏場のトップシーズンも、車上狙いや痴漢などの犯罪が多発するようになっていた。警察署の与える心理的抑止力が、いかばかりか窺える。だが、ここまで悪化させたのは、白竜警察の移転だけが全てではない。母の知る限りでは、諸悪の元凶が白竜温泉社なのだと言う。新任の署長が来るたび、あの海野正孝が瞬く間に手懐ける。毎夜、酒色の宴で骨抜きにし、ゴルフ三昧に法外な付け届けと、至れり尽くせりの接待で雁字搦めにしてしまうのだ。何か、探られたくない腹でもあるのだろう。公権力を、白竜浜に極力入らせまいとしていた。ちなみに、役場と警察署が移転した丘の上の土地は、言うまでもなく白竜温泉社の所有地だったのだ。海野正孝は、その言い値の売却で、莫大な利益を得ていた。
「お待たせしました!」
新任の署長、五十嵐十兵衛(イガラシ ジュウベイ)が、応接室に通された凪乃の前に現れた。
「突然お邪魔して、ご迷惑では?」
「ははっ、迷惑だなんてとんでもない。」「どうぞお掛け下さい。」
彼女の登場で、署内にいた全員が立ち止まって眺めていた。その美しい若女将を目の前にしても、制服姿の男性は驚くほど泰然自若として、舞い上がった様子はなかった。
「あの時は、ありがとうございました。」
「ああ、あの時ですか。」「あの時は、少し進行が強引すぎるかなと。それでつい…。」
やはり助け舟を出してくれたのだ。
「本当に助かりました。」「どうして良いか分からなくて。」
「なら良かった。」「差し出がましかったかと、実は心配してました。」
歴代の警察署長が、あの連絡会の正式な会員だったのである。ただ一人、旅行の話に意を唱えたのが彼であった。自分は、まだ着任したばかりだから、迂闊に町を離れるわけにはいかない。皆さんとの懇親会にはぜひ参加したいので、地元での飲み会にしてくれないかと言い張ったのだ。さすがの好色コンビも、今回の提案を一旦見送る以外なかった。
「それで、お話しとは?」
「はい。沖むらはとても古い旅館で…。」
凪乃は、木造であること、消防や防犯の設備が万全ではないこと、無人の駐車場に目が届きにくいことなどの現状を説明した。夜間の沖むらを重点的に見回って欲しいと訴えたのだ。
「ご無理なお願いなのはよく分かっています。」
「いいでしょう。」「今夜からそうさせます。」
「え?」
今まで、奈津美が何度その足を運んでも無駄だった。
「あの、本当ですか?」
「ええ。私が借りてるアパートも、沖むらさんのすぐ傍なんですよ。」
奈津美の情報が確かなら、歴代の署長は、白竜浜を見渡す高台に建つ、温泉付きの高級コンドミニアムで優雅に暮らしてきている。無論、白竜温泉社から無償で提供されていた。如何にも年配を思わせる名前の五十嵐十兵衛は、若くて精悍な顔立ちの、凛々しい眼差しを向けて彼女に微笑んで見せた。遠い大陸から海を渡ってまで、この白竜浜に伝説の魂の欠片を運んだナニワイバラの可憐な花が、十兵衛の脳裏に再び浮かんだのもこの時だったのである。



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