いけません|ぬくもり3-12

 松山俊哉が幸運だったのは、殆ど握力はなくても両腕が自由に動かせることだった。少なくともある程度の腕力さえあれば、自動車のハンドルを回すことができる。利き手の右手首をハンドルに固定して、左手でアクセル、ブレーキ、ウインカーなどを操作するのだ。自身の車椅子の出し入れも、腕の力が頼りだった。リハビリテーションルームには、乗り降りを練習するための本物の自動車も置かれている。自力での運転を目指す者、目指せる者は少数派となる場合が多い。運転者は別にいて、後部座席や助手席での乗り降りを練習するのだ。無論、俊哉の頭には、自分で運転することしかなかった。午前は作業療法、午後は理学療法と、高い集中力を維持したまま、全身全霊でリハビリに取り組んでいる。真帆と真哉のために、そして、自らに課せられているかもしれない天命のためにだ。
「重度障害者ってのは、死人と同じ扱いらしい。」「だから、いろんなものが免除される。」
隣に並んだ俊哉が、日向ぼっこを続ける敦夫に言った。
「労災保険金や障害者年金も非課税だ。」「健保に入ってりゃ、病院代もかからない。」
彼からは、完全に無視されていた。
「ふん!皮肉だな。」「死人なのに、生きることには困らない。」
人格に関係なく大雑把に障害者と呼ばれることが、日常での関わりを持っていない人々に大きな誤解や偏見の火種を与えているのは間違いなかった。それでも一昔前までの、口汚い侮蔑を含んだあからさまな差別表現に比べれば、それなりに受け入れやすくなったと言えなくもないだろう。人間は、なんにでも階級をつけたがる。支配や秩序のためだけではなくて、劣ったものを見下すことで、優越感という心理的な快楽を得るのであった。あの人たちに比べれば、自分のほうが相当ましである。ただ人に迷惑をかけて生きているだけの、彼らは無知で無能な存在なのだ。まるで障害者自身が、社会の障害であるかの如く、役たたずの邪魔者だと考えている者も少なくはなかった。本当に大切なのは、あれもこれも免除して、奴らは厚顔な税金泥棒だと呼ばせることでは絶対にない。真の平等とは、障害のあることが別枠にされない社会をつくることなのだ。見えない人、聴こえない人、歩けない人、心に病を持つ人たちが、健常者と同じように自立のできる環境を整えることだった。障害を克服する責務は、むしろ社会の側にあるのだ。バリアフリーなどのインフラの整備は勿論のこと、難病に対する新薬の開発や、重度障碍者への本腰を入れた就労支援も喫緊の課題である。しかし、社会は何よりもまず、自らの意識の中にある距離という障害を克服しなければならなかった。障害者への差別や偏見は、まさにその距離が生み出しているのだ。
「僕にはかまわないでくれと言ったはずです。」
「独り言さ。」「どこで何をしゃべろうが、俺の勝手だろ。」
「じゃあ、僕が病室に戻ります。」
憮然としたまま、その場から去ろうとした。
「知ってるか。」「車椅子で、バスケやってる連中がいるらしい。」
敦夫は、如何にも馬鹿にした言い方で、背中越しに切り捨てたのである。
「あんなのは、バスケットじゃありません。」
「なんでだ?」「バスケはバスケだろう。」
「あなたは何も分かってない。」「ほんとのバスケってのは…。」
言葉が途切れた。愛し続けたバスケットへの想いがこみ上げてきたのだ。
「俺の知り合いに、車椅子の貴公子って呼ばれている人がいてな。ある車椅子バスケのチームが、優秀なメンバーを探していると言ってた。」「ふん、俺には関係ないことだがな。」
俊哉は、そう勝手な独り言をまとめたのであった。

 今日の送迎は、圭一郎の運転だった。画伯を連れた八重子が、あの白竜浜に向かったからだ。勿論、彼も美崎凪乃のことをよく知っている。初めて会った時は、見る者の目を奪う容姿よりも、全身から発する哀しみのほうが、はるかに強い印象だったのだ。娘夫婦の家から大学まで通い、卒業後は外資系の一流企業に就職した。あれだけの美しさなのだ。言い寄る男は、星の数より多かったに違いない。しかし、圭一郎の知る限り、その手の話は全くなかった。
「そうなんですね。由莉さんも一緒に。そうなんだ。」
「うん。私もそのうちに顔を出してやろうかと考えてるんだ。」
「温泉いいですね。私も行ってみたいです。」
「ははっ、そうか。かるがもで温泉旅行もいいか。」
「はい。いいかもしれません。」
小紅螺は、ぎこちない笑顔を浮かべて見せた。心が穏やかではなくなっているのだ。小野寺友則の口から、南条正美と言う名前が頻繁に飛び出すようになっていた。それが、彼の上司で、全盲の娘を持つと言うシングルマザーの女性の名だと聞かされたのである。とても誇らしげに話したり、親密さを窺わせる言い回しをしたりと、単なる上司と部下の関係とは思えない。やはり、年上の女性がいた。もしかしたら、すでに交際しているのではないか。ピクピクと眉尻を吊り上げる葵の前で、自分の恋人を紹介するかの如くにしゃべり続けていたのだ。ウブな小紅螺の心にも、まさかにメラメラとした嫉妬の炎が燃えあがっていた。
「彼なんかも誘ったらどうかなあ。」
「彼って?」
「小野寺君さ。」「温泉好きだって言ってなかったか?」
そうだ。たしかにそう言っていた。誘えば、この話に乗ってくるかもしれない。小紅螺の頭の中を、たちまち温泉旅行の妄想が駆け巡った。豪華な懐石料理を前に、湯上りの浴衣姿で自分が彼と向かい合っている。他にはメンバーもいない、二人きりの部屋での夕食だった。友則は、自分が注いだビールを美味そうに飲み干して、彼女も甘口の冷酒に酔いしれていく。お腹を満たした彼の視線が、しだいに自分の唇に向けられている。気のせいではない。仲居が座を外した途端に、友則は畳を這うようにして、一気に近づいて来たのだ。
『次は。』『小紅螺を味見したい。』
『トモくん、ダメだったら…。』
『いやだ、いっぱい小紅螺を食べてみたい。』
『もうトモくんたら、子供みたいなんだから。いけません。』
だが、友則はさらにエスカレートする。彼女もまた、徐々に徐々に…。
「彼、かなりのテクニシャンですごく上手いらしいよ。」
「え?」「あっ、私はそんなこと全然!」「期待なんかしてません!」
「は?」「そんなことって?」「期待とは?」
それが、温泉に付き物の卓球の話であると理解した時、小紅螺の顔は、もはやゆでダコどころか。その口から、火を吐くほどの勢いで真っ赤になってしまっていた。



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