提案|ぬくもり3-13

 町の診療所に八重子を運んだのは、本人の強い希望があったからだ。仲居の一人から、イケメンの若い医師が大人気の医院があると聞いていた。今日が、彼の診察日であることもだ。急に蒼ざめて、立ち眩みがしたらしい。暫く安静にしていれば大丈夫。いつものことだから心配いらないと言う彼女を、夕食や宴会の挨拶回りで付き添えない凪乃が、念のため、手の空いたフロントの石垣と妹の渚に託したのである。夜の診察時間に何とか間に合った。
「もうすぐ、女将さんもみえると思います。」
「そうね。」
そわそわと待合を歩き回る彼の言葉に答えながら、渚は、診察窓口の奥に見える若い看護師の姿を目で追っていた。白衣の木村碧に、特別な関心をいだいているのだ。ここを訪れるのは、小学生の時以来かもしれない。何の予感なのだろう。医院の扉を開けた時から、瞬く間に胸の高鳴りを覚えていた。その原因が、あの若い女性看護師ではないかと疑い始めたのだ。
「お大事に。」
他の患者を応対する木村碧もまた、人目を奪う若い娘の視線を十分に意識していた。その目で見られていることが妙に心地良く思えてくる。こんな感覚は初めてだった。許されるなら、自分も見詰め返してみたい。そんな、あらぬ衝動にまで駆られていた。
「お大事に。お休みなさい。」
最後の患者が待合を出ていった。それは、石垣が二度目のトイレに立った時であった。
「あなたの連絡先を教えて下さい。」
「え?」
窓口の前に立った渚が、スマホを彼女に見せたのだ。
「あっ、はい。ちょっと待って。」
碧自身も、慌ててバッグの中から自分のスマホを取り出していた。
「ありがとう。」
何かに魅入られたようだった。自分は警戒心が人一倍強いと、内心では自負していた。どこの誰だかよく分からない、しかも年下らしき同性の相手に、個人の連絡先を教えるなどあり得ない。その上、すぐにでも彼女から連絡があることを切望している信じ難い自分がいた。
「ごめんなさい。」「石垣さんも、後は私が。」
妖しい視線を、振り返りざまに浴びせた渚と入れ替わりに、この世のものとは思えぬほど美しい美崎凪乃が現れたのだ。その刹那、木村碧の心臓が早鐘を打った。妹のものとはまるで違う。異質で見知らぬ感情が込み上げてきたのだ。それは、衝動を越えた愛しさだった。
「あの…、先生がお呼びです。」
ひと目、沖むらの若女将を見た柳生康介が、言葉を失くしてしまったのもこの時である。
「だははははっ!」「どうじゃ、言った通り天女のようであろう!」
点滴を受けながら、八重子はすやすやとうたた寝をしていた。
「これこれ、見とれとらんと、早く説明せんか。」「見物料もらうぞ。」
「あ、ああ。」「柳生康介です。」「週2回、この診療所に来てます。」
「何で自己紹介なのじゃ。」「口を閉じんか口を。だははははっ!」
どこにいても、由莉はあくまで由莉だった。
「お世話になりました。沖むらの美崎凪乃と申します。」
彼の脳裏にも、可憐な白い花びらのナニワイバラが、再び鮮やかに思い浮かんでいた。彼ばかりではない。木村碧の脳裏にも、さっそく彼女に二人で逢いたいとメールを送った渚の脳裏にもだ。そして、警察署でも同様の体験をした凪乃の脳裏には、真っ暗な深海で大切な人たちを捜す、自らの瞳の先の孤独な光景が、よりくっきりと鮮明に浮かび上がっていたのである。

 田所万作の権勢に翳りが見えていた。余りに強引な手法が、社内の保守派の危機感をあおり、それまではバラバラであった、数に勝る彼らを結束させてしまったのである。一匹の蟻は瞬時に踏み潰されたとしても、大群となれば猛獣を倒すことも不可能ではない。そうと分かれば、敵の敵が、こぞって味方となってくれる。水面下で暗躍していたレジスタンスも、いつしか堂々と反旗を翻すようになっていた。翻された反旗が、冷遇されてきた反主流派をなおさら勢いづかせたのだ。追い落とされた独裁者の末路ほど、憐れでむごいものはない。それを、万作自身が一番よく知っていた。世界の歴史が、十分に物語っているからだ。
「お帰りなさい。」
千穂は、玄関で彼の鞄を受け取った。
「お風呂にしますか?」
「そうだな。そうしようか。」
このところの帰宅の早さが気になっていた。やつれたように感じる暗い表情もだ。
「すぐに沸かしますね。」
「ああ、頼む。」
二人が夫婦として連れ添って、かれこれ二十年の月日が流れていた。千穂と知り合ったのは、前妻に見限られ、完全に子育てに行き詰っていた頃なのだ。彼女は、小さな喫茶店を、万作の勤める本社ビルの傍で営んでいた。仕事と同じく、猛アタックして、千穂のハートを射止めたのである。俺と一緒に、苦労をしてくれないか。それが、彼からのプロポーズの言葉であった。千穂がいたからこそ、今の田所万作があるのだ。
「お前は…。」「どう思う?」
「何がですか?」
寝室で天井を眺めていた。ドレッサーで髪を梳かす彼女に問い掛けたのだ。
「例えば、田舎暮らし、とか。」
「あなたの田舎?」
「いや。」「どこと言うこともない。」
心が弱っている。千穂はそう感じた。
「そう…。」「田舎ねえ。」
剛腕とか、独裁者とか、さらには陰でもっとひどく言われているらしい。それも、今までは反骨精神を下支えしてくれていた。裸一貫からのし上がる男には、常にアゲインストの風が吹くと笑い飛ばしてきたのだ。だがそれも、本当は繊細さゆえの強がりだと知っていた。
「ねえ。」「二人で行ってみない?」
「ん?」
万作は、彼女の提案に耳を傾けていった。



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