下心|ぬくもり3-14

 これが三度目だった。しかし、今夜は残業の後ではなかったのだ。偶然に偶然が重なって、スタッフ全員が、夕方には揃って帰宅していたのである。愛娘のために、誕生日のプレゼントを買いに行くという正美を、彼は、ごく自然に自分の車に乗せていた。買い物は、短い時間で終わっていた。その後の食事も、ファストフードで簡単に済ませたのだ。彼女が観たいと言っていた映画は、まさかに年下の男性との激しい恋に落ちる女性の物語であった。
「おもしろかったですね。」
「え、ええ。そうね。」「なんかどきどきしちゃったわ。」
「僕もです。今もすごくどきどきしてます。」
人の気配が、車の周りに全くないことを、どちらもすでに意識していた。映画館の駐車場の中でも、一番目立たない場所なのだ。正美は、あえて素知らぬ顔で正面を向いていた。
「あんな恋がしてみたいです。」
「そ、そう?」
「チーフは?」「年下との恋は嫌ですか?」
もう正美は答えることができない。喉がカラからに乾いていた。
「僕はしたいです。」
友則は彼女の両肩を掴んで、瞳を見詰めてきた。
「チーフと。あんなふうに…恋してみたいです。」
「小野寺君…ダメ。」
若い男性の恋は、殆ど性欲と区別するのが難しい。言葉の上では熱い想いを勝たれても、実際にどこまで本心なのかは、彼ら自身にも分からないのだ。一人の女性だけで満足できる場合は稀で、多くの対象に目移りすることも自然だった。大人の正美も、それを心得ている。何もかも一度に与えてしまえば、二人の愛が育つ前に、自分が飽きられてしまうだろう。すぐにでも愛し合いたい気持ちは十分にあった。だが、今夜の彼女は、唇を重ねさせただけだったのである。これが、人生最後の恋なのかもしれない。そのプロセスも大切にしたかった。
「ありがとう。おやすみなさい。」
「後でメールしてもいいですか?」
「うん。待ってる。」
走り去る車のテールランプを見送りながら、彼女は心のどこかにやましさを感じていた。全てを計算し尽している自分がそこにいたからだ。偶然を装って皆の帰宅を急がせたのも、あの映画の内容を知りつつ観たいと言ったのも、小野寺友則をその気にさせるための計算だった。この年で最後の恋をするなら、二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。彼が、これからの人生のパートナーとしても、本当に相応しいのか、自らが主導権を握らなければ判断することができなかった。万一、期待を裏切られた時も、愛欲の恋に溺れていたなら踏みとどまることができないだろう。まずは、それを見極めることが先決であった。互いの肌の相性を確かめるのは、それからでも十分遅くはない。そう考えていたのだ、それでも、あの甘い口付けが、彼女を痺れさせていたのも紛れのない事実であった。実家の門をあけて石段をのぼる南条正美は、思わず嬉しそうに微笑んで、自分の唇を指先でなぞっていた。

 美崎奈津美が名義人の丘の上の自宅は、沖むらから車で10分の距離だった。渚は今、殆どそこで独り暮らしの状態なのだ。女将となった凪乃は、旅館の敷地に建てられた粗末な離れに住んでいた。早朝から深夜まで働き続ける女将が、束の間の休憩や仮眠をとるのも、四季折々の色あでやかな着物に着替えるのも、ずっと歴代がここで済ませてきた。まだ修行を始めたばかりの若女将が、自宅に戻ってゆっくり休めるはずもない。簡素なキッチンとトイレがあるだけで、入浴は、深夜や早朝の家族風呂を主に利用していた。幼い頃の凪乃も、そして渚も、わずかでも母に甘えられる離れに、学校帰りには入り浸っていたのである。
「いただきまーす。」
母が入院して以降、渚はここで夕食を摂っていた。従業員と同じ賄い食が、弁当詰めして置かれている。板前たちが腕を振るった特別な物ではない。洗い場のおばさんが交替で作る家庭料理であった。今夜もまだ、凪乃の分は手付かずなのだ。ここに戻ってくるのは、やはり深夜になるのであろう。疲れ果てて、冷たいベッドに滑り込む姉の姿を思い浮かべていた。こうまでして護り抜く旅館の看板が、渚には重すぎる荷物のように思えてならない。沖むらの看板さえなければ、凪乃は今さら過去と向き合う必要もなかったのだ。
「あっ、早すぎたかな?」
扉の合鍵は、旅館の事務所できちんと管理されていた。しかし、女将がもう一つの鍵をかけなければ、その合鍵で誰でも自由に出入りすることができる。わざと早めに弁当箱を取りに来たのは、あの山本茜であった。確実に渚がいる時間帯を狙ったのだ。
「ごめん、もうすぐ食べ終わる。」
ここ以外では同窓生であっても、旅館の中では互いの格が違い過ぎた。仲居たちは皆、お嬢様として従わなければならない。渚は、そうした古い仕来りも好きではなかった。二人の時は、茜にタメ口させているのもそのせいなのだ。
「考えてくれた?」
「あ、女子会のこと?」
麗奈と茜は、女子寮での飲み会に誘っていた。ゆっくり家族風呂にでも浸かって、それから朝まで三人で楽しもうと提案したのだ。もしも同じ嗜好なら、自分たちの想いにも気付くに違いない。それでも応じるなら、もはや渚は落ちたも同然だと澤田麗奈は考えていた。
「どうなのかな?」「気が乗らないなら…。」
「うふふっ、知らないと思った?」「あなたたち二人のこと。」
「え?」
「下心が丸見えだもの。」「ふふっ、昔からね。」
茜の目が泳いだ。渚は、とうに見抜いていたのだ。
「いいわよ。あなたたちとのこと、考えて上げる。」
「嘘でしょ、ほっ、ほんとになの?」「ほんとにほんとなの?」
どこまでが本気なのか。渚は、意味深な笑みを浮かべて、それ以上は答えなかった。否、彼女自身にも、本当の自分がどうしたいのかよく分からないのだ。心に想い続ける相手はただ一人だった。だが、それは永遠に手の届かない、口にすることすら許されない相手でもあった。恋しさが、彼女の思考をかき乱す。愛おしさに、どうにかなってしまいそうだった。
「お姉ちゃん…。」
舞い上がった茜が離れを出て、吉報を待つ麗奈の所へ向かった。渚は、冷たいベッドに上半身を倒して、凪乃の枕に顔を寄せていったのである。その頬は、ほんのり紅に染まっていた。
「お姉ちゃんは、あたしが絶対護ってみせる。」「もう、ほかの人に傷付けさせない。」



「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/446350383
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック